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「インド」のその他の用法については「インド (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
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(国旗) | (国章) |
公用語 | ヒンディー語(連邦公用語) 英語(連邦準公用語) その他複数の各州公用語 |
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首都 | ニューデリー[1][2][3] /デリー連邦直轄地[注 1] |
最大の都市 | ムンバイ |
独立 - 日付 | イギリスより 1947年8月15日 |
通貨 | インド・ルピー (INR) |
時間帯 | UTC (+5:30)(DST:なし) |
ISO 3166-1 | IN / IND |
ccTLD | .in |
国際電話番号 | 91 |
インドは、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領し、インド洋に面する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、英語: Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。
西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、アンダマン諸島がインドネシアに近接している。インド本土は、インド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という二つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。
1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。
国の遺産動物 インドゾウ |
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国鳥 インドクジャク |
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国樹 印度菩提樹 |
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国花 蓮 |
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国獣 ベンガルトラ |
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国の海洋哺乳類 ガンジスカワイルカ |
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国の爬虫類 キングコブラ |
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国の遺産哺乳類 ハヌマンラングール |
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国果 マンゴー |
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国の象徴の寺 アークシャルダーム寺院 |
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国の象徴の川 ガンジス川 |
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国の象徴の山 ナンダ・デヴィ |
インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第2位の人口を持つ大国である。13億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。総人口は2020年代に中華人民共和国を抜いて世界最大になると国際連合により予測されている[5]。
南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン、東はバングラディッシュとミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカとモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイとインドネシアとの間に海上の国境がある。
インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年紀には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。初期の統一国家はマウリヤ朝とグプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀のムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下におかれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などの後、1947年に独立した。
2017年、インドの経済は名目GDPにおいて世界第7位であり、購買力平価では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、新興国と言われるようになった。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04%である。ヒンドゥー教徒が最も多く、イスラム教、シーク教がこれに次ぐ。カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、今でも農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとしている[6]。
連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。議会制民主主義国家であり、有権者数8億人と世界最大である[7]。州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、世界で2番目に多い常備軍を保有し、軍事支出は世界で5番目である。
インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。
バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する。
英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hinduš を古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した[8]。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ東海岸をも India と呼ぶことがあった[9]。
イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』に見える)または天竺(『後漢書』に見える)のような漢字で音訳した[10]。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする[11]。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であるが、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[11]。近代になって、西洋語の India に音の近い「印度」、または日本ではそれをカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。
1931年にインド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気と犠牲を意味する。緑色はイスラム教を、白は平和と真理を意味し両宗教の和合を表している。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている[12]。
紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族等)がパンジャーブ地方に移住。後にガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年頃に始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ、シンド、ガンダーラを失った。前5世紀に釈迦が仏教を説いた。紀元前330年頃、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた。(マッロイ戦役)紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現在のパトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年頃にディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年頃、カリンガ戦争でカリンガ国(現オリッサ州)を併合。この頃、初期仏教の根本分裂が起った。紀元前232年頃、アショーカ王が死去すると、マウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。
ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原のカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。
これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年頃に滅亡した。7世紀前半頃、玄奘三蔵がヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ大学で学び、657部の仏教経典を中国(唐)へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、近隣諸国のパガン仏教寺院・アンコール仏教寺院・ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。
11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。
一方、南インドでは、10世紀後半頃からタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。11世紀には北宋との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。
13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世からモンゴル帝国の圧力が始まった。14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後ムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。
14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。
しかし、1565年にターリコータの戦いでデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614)の奮闘もむなしく、その没後王国は滅亡した。デカン・スルターン朝も、その後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。
16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。
だが、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国・メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(後にマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国ビジャープル王国(1686年滅亡)・ゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。この頃、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。
アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。
1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを奪取した。1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年-1961年)を築いた。1620年、デンマーク東インド会社がトランケバル(英語版)にデンマーク領インド(英語版)(1620年 - 1869年)を獲得。1623年のオランダ領東インド(現インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。
そのような状況で、ムガル帝国が没落しイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(英語版)(1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。
一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権, Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。
インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国だった。毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した。[13]
1824年、英蘭協約でイギリスがマラッカ海峡の制海権を確立した。
1833年、ベンガル総督ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの下でインド総督に改称。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン(英語版)がカーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 - 1853年)を開始。 インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争(1840年)が行われて三角貿易体制が形成された。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。そしてこの頃にタタ財閥やバンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。
インド大反乱(1857 - 1858)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法(英語版)を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世をビルマに追放してムガル帝国を滅亡(1858年)させた。
その後、旱魃によるオリッサ飢饉、ラージプーターナー飢饉、ビハール飢饉(英語版)、大飢饉(英語版)が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。
イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。この時、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ(英語版)」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。
イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図って1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。
日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして参戦した(英印軍)。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。
1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させ、1930年には塩の行進が行われガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。
第二次世界大戦においてはインド帝国はイギリスの支配の元で再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争にといて、有色人種国家である日本軍が、マレー半島や香港、シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に大打撃を与えて(インド洋作戦)インドに迫る中、国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。
また、インドは戦間期にシティの利害と関係して、巨額の在ロンドン・スターリング残高を累増させて債権「国」となりつつあった[14]。これに先立つ1935年にインド準備銀行が創立された。1937年にビルマが独立してインドは食料輸入国へ転落した。さらに1939年の防衛費協定によって、イギリスは第二次世界大戦におけるインド軍の海外派兵費用を負担した。これらの結果1946年までに負担は13億4300万ポンドに累積した。それはインド準備銀行のロンドン残高に英国大蔵省証券として蓄積された。インドは元々イギリスに対して債務国であったが、1942年7月から債権国となっていた。
1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。インドの民衆に伝わると国民的反発を各地で呼び、大暴動が勃発。インド独立運動の本格化につながった。更に1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺が起こった。
この暴動を受けて、イギリス本国が独立を容認し統治権を返還した。戦後にインド国民軍将兵らを処刑することへの抗議から始まった大規模な暴動で1947年8月15日に独立を勝ち取ったため、日本軍約7万8000人とインド国民軍約2万人の日印連合軍によるインパール作戦こそがインドを独立させた対英インド独立戦争であると元インド国民軍将兵から感謝と評価をする声がある。インドの首都デリーの中心部にはインド国民軍を指揮して日本軍と共にインパール作戦を戦ったインド独立の英雄として、かつての英国植民地支配の象徴であったレッド・フォートの方角をインド国民軍兵士らを率いて指差しているスバス・チャンドラ・ボースの銅像が建っている[15]。
初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。また、1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。更に憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。
独立当初はイギリス国王を君主に戴く英連邦王国(インド連邦)であったが、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家のパキスタンと分離独立した。
それまでインドは灌漑地面積において世界一であったが、パキスタンにはインドの公共事業で開拓された灌漑地域の半分以上が存在し、分離により総面積の1/3に相当する2200万エーカーを失った。作物では麦の作付面積1520万エーカーの半分と、綿花では770万エーカーの3/4を分離された。[16]
1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義「民族義勇団」(RSS) 活動家のナートゥーラーム・ゴードセーによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。
1948年夏からパキスタンを伴って、イギリスとスターリング残高の取扱いをめぐり本格的に交渉を始めた。スターリング残高は、インドが9億6000万ポンド、パキスタンが1億7000万ポンドとなった。インドは同年9月13日、ポロ作戦でニザーム王国を併合した。1949年春に国際収支危機へ陥り、夏に残高をめぐる再交渉が持たれた。一昨年の妥決では年間6000万ポンド引き出せることになっていたが、再交渉により5000万ポンドに減った。政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、1950年1月26日に共和制に移行した。憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。独立後、他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、英国資本によるプランテーションへの投資も続いた。近年においても小学校さえ行けない子も多く貧富の差も激しい。しかも、これは計画経済の結果であった。
1951年、アメリカ合衆国、イギリス、ソ連、西ドイツの支援を得てインド工科大学第1校が設立された。1952年2月に結んだ5年間の英印協定では、インド政府がロンドンに3億1000万ポンドのスターリング残高を持つことが確認され、毎年3500万ポンドの引き出しが認められた[17]。同1952年、パキスタン分離で失われた生産力を底上げするため農業改革が行われ、小作地取上げを激化させた[18]。改革は、綿花、さとうきび、ジュートなどへのモノカルチャー化と結合して進められたが、小農は経費を出せなかったので、収益性の高い作物栽培から疎外された[18]。このとき綿花は世界で価格を暴落させていた。1954年、フランス領インド(英語版)が返還されてポンディシェリ連邦直轄領となった。翌年3月、ソ連との間にビライ製鉄所(Bhilai Steel Plant)建設の援助協定が調印された。1955年5月の第13回キッサン・サバ(Kisan Sabha)大会では、同党が農業改革に抗議した結果、土地の取り上げを禁じる小作法が成立したものの、同法の実効性が不十分であることが報告された[18]。
1956年1月19日、インドは国内の生命保険を国有化した[19]。国有化の対象にプルデンシャルが含まれていた[20]。6月19日インド生命保険会社法が成立して、9月1日インド生命保険会社(Life Insurance Corporation)が創設された[19]。1956年、インドは西ドイツの主要な輸出先であった(8億マルク超)[21]。
1957年、インドのスターリング残高がほとんど枯渇した。翌年から世界銀行等から多額の借款を得た。この時にコンソーシアム立ち上げを主導したのがネルーの甥(Braj Kumar Nehru)であった。こうして米系銀行がインドの資金を出すようになり、B・K・ネルーは1961年に駐米大使となった。1961年12月、インドのゴア軍事侵攻(英語版)が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年、中印国境紛争が勃発、アクサイチンを失った。1955-63年のソ連圏から低開発諸国向けの経済援助において、全対象29カ国においてインドが最大の被援助国であった(エジプトとインドネシアが順に続いた)[22]。
1964年、当時に発生した飢饉を教訓に、インド食料公社(Food Corporation of India)が設立された。生産者から米・小麦・砂糖・食用油などの作物を最低支持価格で買上げ、政府が定める中央卸売価格を基準に公正価格店に卸す体制がつくられた。消費者が妥当な価格で食料を購入できる公平なシステムとされているが、市場原理との齟齬や政府・外資の癒着が問題となってゆく。差し迫った次元では小麦と食用油の完全自給ができていない(2003年でも自給率はそれぞれ85%と68%)。[23]
1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリーも1966年に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディーの国民会議派が政権を担った。東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、カシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドが共に東パキスタン(英語版)[要リンク修正]を支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立やニクソン大統領の中国訪問(1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定(英語版)でバングラデシュ独立をパキスタンが承認した。
1973年1月1日、生命保険以外の保険業を国有化し、(11月22日に)持株会社を創設した(General Insurance Corporation of India)[24][25]。持株会社は、国有化の対象となった総合保険大手4社の上に置かれた。なお、東京海上火災保険が日本勢として国有化の対象となった。国有化は、多国籍企業が国際世論に攻撃される中で、インド債券を国内資本で消化するために行われた。これで工業製品全般を国内生産することができるようになった。1974年5月18日、コードネーム「微笑むブッダ」が成功し、世界で6番目の核兵器保有国となった。
オイルショックが自立しかけたインド経済を停滞させた。保護主義を採用しながら公営の重化学工業を発展させようとして財政を圧迫した。1975-77年に人口抑制策が苛烈となり、貧困層の多い北部の州を中心に精管切除を行った[26]。1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義[27]共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する。」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。
インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年の選挙ではジャナタ党を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった。しかし成立したモラルジー・デーサーイー政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。そこで息子のラジーヴ・ガンディーが首相を引き継いだ。1983年、隣国でスリランカ内戦が勃発したので平和維持軍(英語版)を派遣した。1987年4月、ボフォール社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た[28]。ラジーヴ首相もかかわっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラの自爆テロでラジーヴも暗殺された。
後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、マンモハン・シン蔵相の元で1991年7月から始まった経済自由化(英語版)によってIT分野で急成長を遂げた。インドはこの年に外貨保有が尽きて債務不履行となりかけていた。例によって国際的な援助を受けたので、外国企業の出資制限を緩和するなどの優遇措置をとった。それまで株式発行はいかなる企業も12ヶ月に1度以上行うことができなかった。1992年、インド証券取引監視法(SEBI法)が制定されて、その制限は撤廃されたのである[29]。 同年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドがヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。1993年、上場銘柄の株式売買が外国機関投資家に許可された[30]。同年1月、インドはロシアと友好協力条約を結んだ。翌年9月、インド西部でペストが流行した。
1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策を掲げてアジア諸国との関係も重視。1997年2月、パンジャーブ州が農業に対する電力供給を州の負担で無料化した[31]。6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任した。
1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム『シャクティ』を突如実施。「核保有国」であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功し、日米がインド・パキスタン両国に経済制裁を課した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。
2000年、保険分野への外資出資比率26%を上限とする民間企業の参入が許可された[32]。 2000年以降、大半の産業分野においてインド企業の100%外資所有が認められるようになった[33]。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、アフガニスタンを当時支配していたターリバーンへの対テロ戦争が優先される形で、インド・パキスタン両国への経済制裁が解除される。以後はITサービス業を中心に経済成長を続け、ロシア、ブラジル、中国とともにBRICsの一角として注目を集める存在となり、IT分野においてはその技術力が欠かせない存在となっている。中立非同盟とはいえ、アメリカ合衆国、イギリスとも友好な関係をとっている。一方で、中国やパキスタンとは、緊張関係にある。
2004年の総選挙では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した。2004年7月、マハーラーシュトラ州でも農民に対する電力料金が無料となった。同州では2001年6月にダボール電力(Dabhol Power Company)が閉鎖となった。この合弁会社の出資は、州が3割、エンロンが5割、ゼネラル・エレクトリックとベクテルがそれぞれ1割であった。インドの電力業は農民から得票したい政治家のためソブリンリスクをとらされている。[34]
同年12月26日、スマトラ島沖地震が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域の被害は甚大であった(死者12,407人・行方不明1万人以上)。
インド経済は地震の被災者または社会的弱者の生活を救う余力を欠いていた。2000-2005年にかけて、インド民間企業部門の資金動員総額に占める証券(株式・社債)の割合は4.2%から26.5%に急増した(広義の証券化)[35]。1999-2004年にかけて、インドの経済成長は雇用の増加をともなわなかった[36]。
2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。
2008年、アメリカ合衆国がインドへ原子力発電所を輸出しようと原子力協定を締結していたのである。印パ・イスラエルは核拡散防止条約に調印せず、同条約に基づく国際原子力機関との包括的保障措置協定も結んでいない。原子力供給国グループは上記三カ国との原子力貿易を禁止していた。そしてアメリカは、上記三カ国への原子力資機材や技術等の輸出を規制する国際規範の策定を主導していた。2008年の協定締結後、フランス・ロシア・日本なども相次いでインドと原子力協定を結ぼうとした。[37]
連邦下院の総選挙が2009年4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した。一方最大野党インド人民党 (BJP) は116議席に止まった。
2010年8月、インド北部ジャンムー・カシミール州で洪水が起きた。州東部のレー町の当局者は、死者が165人に達したと発表した。一方、軍当局者は9日洪水の行方不明者は外国人も含めて500人に達したと発表した。
2014年5月開票の総選挙でインド人民党が大勝して、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した[38]。首相は2015年4月にムドラバンク(Micro Units Development and Refinance Agency Bank)を立ち上げた。これは中小企業支援を目的とするノンバンクであった。政府は同年5月新開発銀行の総裁にシュルンベルジェのカマス(K. V. Kamath)を指名。6月末、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に83億ドルの支援を約束した。
2016年9月にゼネストが起こった(Indian general strike of 2016)。返済能力に乏しい企業の抱える債務がインド債務全体に占める割合は、2016年4月から2017年3月の統計で33.9%にも達した[39]。2017年6月、印パ両国が上海協力機構へ正式に加盟した。11月上旬、リライアンス・インダストリーズ携帯子会社が社債をデフォルト[40]。リライアンスは財閥として堅牢といえず、トップクラスのミューチュアル・ファンドによって機関化されている[41]。
2018年8月以降、インフラストラクチャー・リーシング・アンド・ファイナンシャル・サービシズ(Infrastructure Leasing & Financial Services, IL&FS)が社債などのデフォルトを連続させて、株式市場に大きな影響を与えた。10月1日、政府が(ベイルアウトにより)同社経営陣を全て入れ替えると発表した。再建計画を受け入れた機関株主は、1956年9月発足のインド生命保険会社(25%)、オリックス(23.54%)、アブダビ投資庁(12.56%)、インドステイト銀行(6.42%)であった。このようなシャドー・バンキング・システムは困難に直面するとみられていた。[42][43][44][45]
パキスタン、中華人民共和国(中国)、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。
中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州・シッキム州北部に接していて、ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州・トリプラ州・西ベンガル州の3州、ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部・マニプル州・ミゾラム州・ナガランド州東部と接している。
インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線を持つ。多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられ、雨期を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611m)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598m)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。
インドが他のほとんどすべての国よりも発展が遅れた主因は水不足であった[46]。インド亜大陸の平均降水量は年間約1000ミリであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州や西ガーツ山脈では1万ミリ以上であり、シンド州の一部では100ミリも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25-40%減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す。[47]
広大な国土を持つため、地域により気候は大きく異なる。雨季には大きな洪水が発生するほどの豪雨がある地域も多い[48]。2016年5月19日には西部ラジャスタン州ファロディで最高気温が51℃を記録し、1956年に同州アルワルで観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6℃を60年ぶりに更新した[49]。
バラナシやタージマハルのあるアーグラーが属する北インド平野では5月が最も気温が高くなり、45℃を超すこともある。3月下旬~9月下旬まではひたすら暑く、特に4月~6月は酷暑となる。7月~9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月にヒマラヤ周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に12月中旬~1月下旬にはショールが必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたるラジャスターン州エリアは、典型的な砂漠気候で高温となり特に3月下旬~9月下旬までは、降雨も少なく、厳しい乾燥地帯で4月中旬~6月頃は特に酷暑となる。12月中旬~1月下旬の約1ヶ月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み昼間と夜間の気温差が大きい[48]。
南インドは一年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるために大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20℃超、普段は30~35℃程度。6月~9月の雨季の4ヶ月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生しムンバイのような大都市の都市機能が麻痺することもある。南インドでもバンガロールは標高が800mある高原であるため年間を通し過ごしやすいため、外国企業が集まるIT都市として発展したほどである[48]。
コルカタや東海岸は夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月~9月の雨季は、気温が40度近くになり、湿度90%を超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある[48]。
年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬~9月の雨季の降雨量は多い[48]。
冬場は気温は低く奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。シムラーやダージリンは他地方が酷暑の時期に避暑地となる。ダージリンの雨季は6~9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い[48]。
インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法は1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。
国家元首は大統領。実権は無く、内閣(Union Council of Ministers)の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。
副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。
行政府の長は首相(Prime Minister of India)であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。
議会は、両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。
上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。 下院は、545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(British Indians、イギリス系インド人:植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は、5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。
インド軍は、インド陸軍、インド海軍、インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインドの軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府 (Government of India) のトップ(政府の長)である首相 (Prime Minister of India) が有している。インド軍の管理・運営は国防省 (Ministry of Defence) ・国防大臣 (Minister of Defence) が担当する。
インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事部隊は、アッサム・ライフル部隊(5万人)、特別フロンティアフォース(1万人)である。以前は、準軍事部隊とされた政府武装警察部隊と、国境警備部隊、中央予備警察等を含む中央武装警察部隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。
グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。志願制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度も無い。
近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBM・SLBM・戦略爆撃機(後述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発等々多岐にわたり、国防費は2012年度で461億2500万ドルで、年々増加傾向にある。
チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功して2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上に渡る運用が終了して月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてISROによる5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)、ブルガリア宇宙局等、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROと共に月に氷が存在する有力な手がかりを発見した。[50]
2013年11月5日、最初の火星探査機の打ち上げに成功した[51]。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」であるが、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている[52]。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった[53]。
インドは29の州と6つの連邦直轄領と、デリー首都圏 (National capital territory of Delhi) から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール州はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交・国際政治の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール州、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている[54]。
主要都市
都市 | 行政区分 | 人口 | 都市 | 行政区分 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ムンバイ | マハーラーシュトラ州 | 13,662,885 | 11 | ジャイプル | ラージャスターン州 | 2,997,114 |
2 | デリー | デリー | 11,954,217 | 12 | ラクナウ | ウッタル・プラデーシュ州 | 2,621,063 |
3 | バンガロール | カルナータカ州 | 5,180,533 | 13 | ナーグプル | マハーラーシュトラ州 | 2,359,331 |
4 | コルカタ | 西ベンガル州 | 5,021,458 | 14 | インドール | マディヤ・プラデーシュ州 | 1,768,303 |
5 | チェンナイ | タミル・ナードゥ州 | 4,562,843 | 15 | パトナ | ビハール州 | 1,753,543 |
6 | ハイデラバード | テランガーナ州 | 3,980,938 | 16 | ボーパール | マディヤ・プラデーシュ州 | 1,742,375 |
7 | アフマダーバード | グジャラート州 | 3,867,336 | 17 | ターネー | マハーラーシュトラ州 | 1,673,465 |
8 | プネー | マハーラーシュトラ州 | 3,230,322 | 18 | ルディヤーナー | パンジャーブ州 | 1,662,325 |
9 | スーラト | グジャラート州 | 3,124,249 | 19 | アーグラ | ウッタル・プラデーシュ州 | 1,590,073 |
10 | カーンプル | ウッタル・プラデーシュ州 | 3,067,663 | 20 | ヴァドーダラー | グジャラート州 | 1,487,956 |
1991年・2001年実施の国勢調査データを元にした2008年時点の推定予測値[55] |
インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる(詳細)。1997年5月に政府は低品質の米の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革によりIT産業の他、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ・医薬品といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降は概ね年間7%から9%、2010年度も8.5%の高い経済成長率を達成している。
労働力に関して言えば、インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1%ずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。
貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易がGDPに与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、国内総生産(GDP)に与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が石油製品、後述する農産物と海老、輸送機器、宝飾製品や医薬品、化学品、繊維等である。輸入は 原油・石油製品、金、機械製品等である。
IMFによると、2013年のインドのGDPは1兆8706億ドル(約190兆円)であり、世界第10位である[56]。しかし人口が莫大なため1人当たりのGDPは1,504ドルと世界水準の20%程にも及ばず、インド洋を隔てて南東に位置するスリランカと比べると半分ほどに留まっている。2012年にはGDP購買力平価PPPベースで、日本を抜いて世界3位になった。
2030年代には15億人を超えて、中国を抜き世界一の人口となる見込みであるが、2050年には16.6億人になると予想されている[57]。
農業をはじめとする第一次産業は、世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実施し、独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった[58]。2006年には450万トンを輸出する主要な米輸出国である。インドの農地面積は1億7990万ヘクタールあり、農業は労働人口の52%が従事し、GDPの16%を占めるインド経済の中心である。また農業部門がGDP成長率に及ぼす影響では、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4%台に押し下げられている。
穀物収穫面積の約4割が水田であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012-2013年に世界一を記録した[59]。小麦も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない[60]。2003年時点で砂糖・魚介・野菜・果実は完全自給できている。大豆の自給率が96%であった[61]。綿花は植民地時代からデカン高原で栽培されており、糸車をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。茶も同様である。鶏卵生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの養鶏は国内需要の高い肉も生産量を向上させている。インドでは牛が宗教上神聖な動物とされているが、その乳の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった[62]。カシューナッツ、マンゴー、ココナッツ、生姜、ウコンと胡椒、ジュート、落花生等々も生産している[要出典]。
現在の地位を築くまでは大変な苦労があった。旱魃は灌漑が不十分であれば国民の命を大量に奪う。灌漑はムガル帝国時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に凶作による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特にパンジャーブ地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となったし、アスワンダム建設に経験が活かされた[47]。
しかし、1937年のビルマ分離で食料輸入国へ転落し、また1947年にパンジャーブのパキスタンが分離独立して、インド農業は四肢をもがれた格好になった。以後1950年代までは、英米資本がタタ自動車等の製造業と、証券会社オペレーター養成に向けた英語学教育とを中心に投下され、農業は置き去りにされた[注 2]。
1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式井戸主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980-2000年の間に化学肥料の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブやハリヤーナーという北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない[63]。
デルタが多いベンガル地方は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半にコレラというパンデミックの震源となった。カルカッタは西のフーグリー川と東の塩湖に囲まれ、かつては海抜10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった[64]。
鉱業は後述の化石燃料の他、インド・ウラン公社がウランやトリウムを採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される[65]。現在、国営企業であったコール・インディアの株売却が進行しており、このまま民営化するのか注目される。
インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6%、労働力の17%を占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした[66]。 経済改革後、これまで寡占状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている[67] 。
製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープやバジャージ・オート、ホンダ等が生産販売をしている。 インドの二輪車市場は、年々伸び続け、2012年には中国を抜いて世界第1位であり1300万台以上であり今後も拡大が続くと見られ、2020年までには2,000万台を大きく超えると推測されている。 自動車は、タタ・モーターズ、マヒンドラ&マヒンドラ、ヒンドゥスタン・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーの他、スズキやルノーなどが、1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2011年には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。 造船、航空も成長の兆しを見せている。
石油・エネルギー産業は1984年にボパール化学工場事故を起こしながらも、石油化学を中心に発展をとげた。インドの財閥系企業リライアンス・インダストリーズ社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模ガス田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からはONGCが国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。
製薬産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。その他は鉄鋼業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。
IT時代の到来と英語を流暢に話し教育された多くの若者たちによりインドは、アフターサービスや技術サポートの世界的なアウトソーシングの重要なバックオフィスとなりつつある。インドはソフトウェアや金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。
ソフトウェア産業
近年の高成長は主にIT部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売・欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50%近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても 20%台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6%を占めるまでに至っている。工科系の大学を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること。さらに、インド工科大学やインド科学大学院といった優れた教育機関を卒業後、待遇面の良さなどを背景にアメリカのシリコンバレーなどに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支を支える重要な外貨獲得源となっている。
情報サービス業
1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[68]。
当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティング等の高度なサービス提供によって差別化を図っている[68]。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている[68]。
こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[68]。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25%という高い利益率となっていることを述べた上で、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[68]。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。 現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8%に相当しており、インド経済を支える柱の一つに、なっている[69]。
小売業は、伝統的な小規模な零細小売業である店舗が9割を占める中、地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。
医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるために、医療関係でも英語圏との結び付きが強い。インドでは海外からの医療ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例55000人・成功率99.6%という実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安い事が魅力であり、医療費が高いアメリカとインドの手術費用を比較するとアメリカではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。 計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5%が先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師がアメリカやイギリス、カナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40%がインド人医師で占められ、アメリカに於いても10%を超える外科医がインド人医師である。
他の部門ではバイオテクノロジー、ナノテクノロジー、通信、観光が高成長の兆しを見せている。
インド金融制度の腐敗は独立以前から欧州資本により進んでいたが、1991年からの機関化で加速している。現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーのHarshad MehtaとKetan Parekh、金融インフラSatyam スキャンダル、Chain Roop Bhansali[70]のミューチュアル・ファンド、複合企業主のSubrata Roy、Saradha Group の金融スキャンダル、NSEL をめぐる金融犯罪、石炭割当をめぐる政治スキャンダル、2G周波数システム設計を政府がN・M・ロスチャイルド&サンズに募らせるなどのモバイルをめぐる数々の癒着[71]。そして700のインド系銀行がHSBCジュネーブ支店に総計600億ルピーを隠匿。
2016年4-12月間インド準備銀行が実施した金融犯罪統計で、ICICI銀行が最大件数となり、SBIホールディングス、スタンダード・チャータード銀行、HDFCが順に続いた[72]。この期間にプラチナ・パートナーズという法律事務所の金融犯罪が暴露されていった。ここの顧客には、ディアジオ(グラクソ・スミスクラインとジョイントベンチャー)・ノバルティス・ダノン・ブラックストーン・MTNグループ・野村証券・マイラン・ピアソン・ドイツテレコム・BTグループなどがいる。また2017年でなおポンジ・スキームが摘発される(醜聞一覧)。
2004年から高度成長期に入り、金融腐敗が進む2010年には中間層が2億4千万人と増加した反面、1日65ルピー未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。アジア開発銀行が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。09〜10年の国立研究所調査では都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9%を目標に2012年からの第12次5ヵ年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10%削減する予定だった [73]。
電力の供給能力は機関化による経済成長に追いつかず、日常的に停電が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。
またインドの環境に対する意識は高く、森林保護活動や植林活動は40年以上の歴史がある。インド政府の政策や投資によって再生可能エネルギーの利用に力を入れている。 風力発電の累計導入量は2010年末時点で13.1GW。世界全体の7%を占め世界第5位である。インドのスズロンエナジー社は世界5位の風力発電機メーカーである。2009年策定の「太陽エネルギー国家計画」では、太陽光発電を2022年までに2,000万kWに拡大する目標を設定しており、今後の導入拡大が見込まれる。
インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染の最大要因を車の排気ガスと分析する。特に 12月中旬 - 2月中旬に北インドで発生する濃霧期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合 (EU) の排ガス規制「ユーロ 4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ (BS4)」が導入されている。 エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。
また衛生面でも課題が多い。トイレを持たない家庭も多く、政府は屋外での排泄行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている[74]。
独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。
カシミール地方においてインドとパキスタン・中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール州となっている。
これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は、中国との間で中印国境紛争があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。
近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。
第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。
1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 - 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結された。インドは親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある[75]。
広島の原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したほどである。また、1970年代頃からは、日本プロレス界でインド出身のタイガー・ジェット・シンが活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。
2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。 日本政府は「価値観外交」を進め2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結された[76]。日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣(8月18日 - 26日の東南アジア訪問の一貫)、2005年に小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣(ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーとコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。
2011年8月1日に日本・インド経済連携協定が発効した。2012年4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された[77]。 2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれた。 日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した[78]。
17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。
イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治をあたえるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。
しかし非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。
第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。
インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、61年にはすでに10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していた、と記録に残っている。彼らの多くは英国にすでに移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスターそしてレスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。
インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。
冷戦期は中立非同盟路線(実態はソ連寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカ合衆国との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。1998年の核実験を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。
また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング)。
一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが[誰によって?]、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。
英語の運用能力が高く人件費も低廉なため、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は馴染みがないため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。
アメリカとの時差は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝。そのためにアメリカで発注をかけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もあるとのこと。この言語と時差の特性を利用しインドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。
アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフトの従業員の34%、IBMの従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%がインド系アメリカ人であり、インド系アメリカ人は100万 - 200万人台いると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。
また、アイビー・リーグ等のアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、移民税関捜査局(ICE)調査によれば中国人学生の次に多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学(STEM)分野を学んでる模様。
また後述するように、アメリカ国内ではインド人に対する深刻な嫌がらせは基本的に見られず、強いて言うならばアメリカ同時多発テロの時にアラブ系と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。
インドはオーストラリアにとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、さまざまな分野にわたって提供しているという。インド工業連盟 (CII) は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源開発、鉱業、エネルギー、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画、メディア、エンターテインメント、小売り、金融、と活用されている分野を挙げた。
オーストラリアは移民政策としてアジア人を受け入れており、特にインド人は英語が話せるために多くが留学また移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民して、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行く事を選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。
2005年頃からオーストラリアの若者たちがレバノン人を暴行する事件が相次ぎ、2007年頃からインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。 インド人学生に対する暴行は、主にメルボルンやシドニーなどオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・カレー・バッシング」だった。 相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、外交問題にまで発展した。 ボリウッドの大物俳優アミターブ・バッチャンは、クイーンズランド大学から授与されるはずだった名誉博士号を辞退したほか、ブリスベンで行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力と犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。 ケビン・ラッド首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。
古代では、インドから中国に仏教がもたらされ、インドに留学した中国僧の法顕、玄奘、義浄等を通じ、交流があった。植民地時代は三角貿易で繋がり、近代に独立してからも初代首相のネルーは「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中華人民共和国とインドは兄弟[79])を掲げ、非共産圏ではビルマに次いで中華人民共和国を国家承認して最初に大使館を設置した国であり[80]、平和五原則で友好を深めようとするも、1950年代以降は中印国境紛争や、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府をインドが中華人民共和国から匿ったことで冷戦時代は対立関係になり、現在も国境問題は全面的な解決はされてない。
しかし、1988年にラジーヴ首相が訪中して国境画定交渉が進み、2003年にはバジパイ首相はチベットを中華人民共和国領と認めてさらに中華人民共和国の主導する上海協力機構に加盟して中印合同演習も行うなど緊張緩和も行われている。一方、2017年にはブータンとの係争地に進行してきた中国人民軍にインド側の塹壕を破壊され2か月にわたりにらみ合いになったり、カシミール地方インド領に入り込もうとした中国人民軍をインド軍が阻止し、投石騒ぎの小競り合いが起こるなど、未だに国境の緊張状態は続いている。
宗教の違いや度重なる国境紛争で、独立以来伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪い。近年もムンバイ同時多発テロ以降、関係は悪化していたが、2011年には二国間貿易の規制緩和やインドからパキスタンへの石油製品輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。
2012年9月8日、イスラマバードで会談をして、ビザ発給条件の緩和について合意した他、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた[81]。しかし、カシミールを巡っては対立を続けており、予定された協議も中止し[82]、銃撃戦も起きて両国で非難の応酬がされているなど緊張状態は続いている[83][84]。
高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー・コルカタ・チェンナイ・ムンバイを結ぶ延長約5800kmの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7300kmの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、所々に料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十km郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。
インドの鉄道は国有(インド鉄道)であり、総延長は62000kmを超えて世界第5位である。現在では鉄道が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う。例)ムンバイ、デリー間。飛行機の外国人料金: 6000ルピー。二等の寝台: 400ルピー。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。
インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。
以下の鉄道は、公社化されている。
かつて旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社が多数設立され、それに併せて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。
航空会社としては以下のものがある。
首都・ニューデリーにはインディラ・ガンディー国際空港がある。
2007年の人口は1,131,043,000人であり、第1位の中華人民共和国に次ぐ世界第2位の人口。2011年の人口は12億1,000万人以上で人口増加率17.64%。
2013年現在の人口は約12億3900万人[85]であり、これは世界の人口数では次点(=第3位)であるアメリカ合衆国の約3億1000万人の約4倍の数に上る。
インドの人口は1950年以降、毎年1,000万 - 1,500万人の勢いで増加し続け、政府による人口抑制策を実施したが、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加し、2030年代に中国を追い抜く可能性が高いと言われている。中国が一人っ子政策を見直さない限り2030年代で人口が頭打ちになるのと比べ、驚異的な伸びとなっている。ただし2030年代以降は毎年500 - 700万人増と人口増加はやや鈍化すると予想されている。とはいえ2050年には16億人に達し、その後も増加し続け、2100年には18.2億人近くになるというのが大方の専門家の見方である。
また、インドは人口構成が若いのが特徴で、2000年の中位年齢は23歳であった。
年 | 人口(万人) | 増加率 (%) |
---|---|---|
1950 | 3億5756 | × |
1960 | 4億4234 | 2.2 |
1970 | 5億5491 | 2.3 |
1980 | 6億8885 | 2.2 |
1990 | 8億4641 | 2.1 |
2000 | 10億0169 | 1.9 |
2005 | 11億0337 | × |
2007 | 11億3104 | × |
2010 | 11億7380 | 1.4 |
2020 | 13億1221 | 1.1 |
2030 | 14億1657 | 0.8 |
2040 | 14億8571 | 0.5 |
2050 | 15億9000 | 0.3 |
2100 | 17億9000 | 0.3 |
インド全体の人口増加率は、1971年から2001年まで、2%台から1%台の1.97%に落ちた[86]。
インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。 大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。 Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。[87][88]。 ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。
インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40%を占める。方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。1991年の国勢調査によると、178,598人(調査対象者の0.021%)が英語を母語にしており、9000万人以上(同11%)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。
インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。ただし地名に関しては英語離れとでも言うべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語は未だ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。この様に北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりと共に、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなった後も、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身に付けられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティー等を除けば)日常語として話している人はほとんど居らず、またその複雑さ故に同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
連邦公用語はヒンディー語。多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進める上で、また実際に行政運営を行う上で言語は常に重要な位置を占めており、現在は当初独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があった。その流れを受けて、独立後制定されたインド憲法[7]の第343条では、ヒンドゥスターニー語の流れを汲むヒンディー語が連邦公用語として規定されている。これに対しては憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府はおりにつけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。
それ以外にもインド憲法条文(第8付則[8]、および憲法修正第92法[9]を参照)には以下列挙する「22の言語」が明記されている。しかし、これら22言語(通称「第8付則言語」)は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。例えば、サンスクリット語やシンディー語などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州の公用語の一つであるミゾ語などは、この22言語の中に含まれていない。
公的に認定された言語
(第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字で示す。) 英語は全ての地方の公用語となっている。
連邦首都圏と連邦直轄領
インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)[89][90]。また、『ブリタニカ国際年鑑』2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72%、イスラム教徒11.96%、キリスト教徒6.08%、シク教徒2.16%、仏教徒0.71%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0.12%、ゾロアスター教徒0.02%、その他1.44%である。
ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目。
ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
ジャイナ教とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。 仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。
仏教発祥の地であるが、信仰者は極僅かである。
1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが、細々と命脈を保つのみとなった。
一説では、東南アジア・東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したことが、理由として挙げられる。
1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。
カシミール州のラダック地方、ヒマーチャル・プラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。
シク教は、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。
イスラム教徒もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第二位の勢力である。信徒人口はインドは世界第3位のイスラム教国である(1位インドネシア、2位パキスタン)。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで、暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。
インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは20世紀に北インド(合同)教会(Church of North India)、南インド(合同)教会などが起った。
サーサーン朝の滅亡を機にイスラム化が進んだイランでは、ゾロアスター教徒の中にはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。 インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。かれらはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。
2002年の憲法改正および2009年の無償義務教育権法により、6 - 14歳の子どもに対する初等教育の義務化、無償化が図られている。 後期中等教育(日本の高等学校に相当)は2年制と4年制に分かれており、高等教育を受けるために大学へ進学するには、4年制の高校で学ばねばならない。インドの学校は日本などと同じ4月入学を採用している。
インドの教育は公立の場合には、連邦公用語たるヒンディー語と現地の言語で行われている。さらに21世紀突入以降は、事実上の世界共通語にして旧宗主国の公用語でもある英語の授業が早期に行われるようになった。ニューデリーの公立学校では初等教育から教授言語が英語である。インドの私立高校は既に初等教育から英語で教育が行われている。
印僑は華僑・ユダヤ人・アルメニア人に並ぶ世界四大移民集団で、インド国外で成功を収めている。大英帝国の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人(NRI=印僑)は、インド外務省によれば、2500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として東アフリカのタンザニアや、ケニア、モーリシャス、南アメリカのガイアナ、西インド諸島のトリニダード・トバゴ、オセアニアのフィジーなどが挙げられる。
インド料理は、フランス料理・イタリア料理・中国料理・日本料理などと並ぶ世界的な料理スタイルの1つである。特徴の1つは、様々な香辛料(スパイス)を多用する事であるが、インド亜大陸は広大であり、地域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。
インド系移民と在外インド人の活動の結果として、インド料理は世界各地に定着している。特にイギリスや旧イギリス領のマレーシア、シンガポール、フィジー、ペルシア湾岸、ケニア、南アフリカ、トリニダード・トバゴ、ガイアナなどではインド料理が地元の食文化に溶け込んでいる。チキンティッカマサラはイギリス生まれのインド料理で、イギリスの国民食の1つと呼ばれている。ゴア料理はポルトガルとその植民地に伝播し、マカオ料理などに影響を与えた。また、カレー粉の普及により世界各地にカレー料理が生まれている。インドを発祥とするムルタバは、貿易を通して東南アジアに伝わり、現在では同地域やアラビア半島で食べられている。 日本ではチャンドラボースやイギリス海軍の影響になどにより、学校給食でカレーが取り入れられるなど、ラーメンと並びカレーライスが国民食となっている。全国各地ではその土地ならではの味付けや食材、コンセプトを用いた「ご当地カレー」も登場しており、日本独自の食文化となりつつある。
インドにおいて発達した哲学、思想は、法(धर्म ダルマ)・利(अर्थ アルタ)・愛(काम カーマ)の三つ、あるいはこれらに解脱(मोक्ष モークシャ)を加えた四つを主題として展開してきた。法は主に『ヴェーダ』に述べられる祭式とそれにまつわるバラモン等の四つのヴァルナの正しい生き方に関わり、利は主にクシャトリヤの国王を中心とした国家の正しい運営方法あるいはあり方に関わり、愛は格好よさ・夫婦の生活・性交・遊女など広く男女の間柄についてのあり方に関わっている。また解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。
インド文学は、現在のインドを中心とする地域の文芸、およびそれらの作品や作家を研究する学問を指す。古典期のサンスクリット語や、現在もっとも話者が多いヒンディー語、ドラヴィダ文化に属しサンスクリットと異なる独自の古典文芸を持つタミル語など多数の言語により作品が生み出されている。広義には、ヴェーダや、ヒンドゥー教の聖典であるプラーナ文献、古代の法典であるダルマ・シャーストラ、仏教のパーリ語経典などの文献も含まれる。
20世紀 にはいると、小説は、ムンシー・プレームチャンドによってリアリズムが広まった。プレームチャンドはウルドゥー語とヒンディー語で創作し、社会への問題意識を表現した。ベンガル語の詩人ラビンドラナート・タゴールは、詩集『ギーターンジャリ』を自ら英訳して好評を博し、1913年にアジア人として初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞した。1930年にはプレームチャンドによって文芸誌「ハンス」( Hans )が創刊され、1936年には進歩主義作家協会が設立されてプレームチャンドが第一回大会の議長となる。1930年代以降は民衆を取りあげる作品が増え、貧困、伝統との関係なども題材となった。 1947年にインドは独立を果たすが、インド・パキスタン分離独立による動乱は作家にも大きな影響を与え、これを描いた作品は動乱文学とも呼ばれている。クリシャン・チャンダルの『ペシャワール急行』や、ビーシュム・サーヘニーの『タマス』、クリシュナ・バルデーオ・ヴァイドの『過ぎ去りし日々』など多数ある。
その他の作家として、サタジット・レイによる映画化が有名なビブティブション・ボンドパッダエ、ベンガル語の短編小説の名手タラションコル・ボンドパッダエ、社会の過酷さと複雑さをユーモアを混じえて描くヒンディー語作家のウダイ・プラカーシらがいる。イギリス領時代からの影響により英語で著述活動を行う作家も多く、架空の街マルグディを舞台とした小説を書き続けたR・K・ナーラーヤン (R. K. Narayan) 、『首都デリー』で重層的な歴史小説を書いたクシュワント・シン、サーヒトヤ・アカデミー賞 (Sahitya Akademi Award) を受賞したアミタヴ・ゴーシュ、女性最年少でブッカー賞を受賞したキラン・デサイなどがいる。
この節の加筆が望まれています。 |
インド国内では各地方の言語でそれぞれ独自に映画が制作されていることもあり、インドは世界で最も多くの年間映画制作本数を誇る国である。また同様に音楽も各言語ごとにアーティストがおり、独自のアルバムが制作され、各州、各言語ごとに音楽や映画の制作者が存在する。
特に北部を中心にインド全土で上映されるヒンディー語による娯楽映画は、その制作の中心地であるムンバイの旧名ボンベイとアメリカのハリウッドをもじって「ボリウッドフィルム」と呼ばれている。様々なタイプの映画があるが、多くはミュージカル要素を含んだ映画で、これらは日本で「マサラムービー」と呼ばれ親しまれている。インドだけではなく西アジア・アフリカ・東南アジア諸国で大変な人気があり、重要な輸出産業のひとつとなっている。欧米でもインド系住民が住む大都市部を中心に人気が広がっている。
『おしん』、『七人の侍』などの日本映画も知られている。日本テレビ系番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』にてインド映画が紹介されたり、番組出演者が自ら主演する企画があった。以後、日本でインド映画が上映される機会が多くなった[要出典]。
インドはデリーで、1951年アジア大会と1982年アジア大会を開催し、また2010年コモンウェルスゲームズを開催している。
国民の人気と言うことではクリケットの人気が高い。ナショナルチームが1983年クリケット・ワールドカップでの優勝などの実績を持つ。インド・クリケット協会 (Board of Control for Cricket in India, BCCI) が国内組織を統轄しており、国内大会はドゥリープ杯、デオダール杯などがあり、またトゥエンティ20ルールで運営するインディアン・プレミアリーグ (IPL) 、インド・クリケットリーグ (ICL) のプロリーグがある。クリケット・ワールドカップも1987年と1996年、2011年大会をインドで開催した。
インドの国民的スポーツはイギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーで、インドホッケー連盟がナショナルチームを初めとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金が8個、銀1個、銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年よりプレミア・ホッケーリーグがあり、テレビ中継が開始されている。
近年テニスもデビスカップインド代表の活躍もあり、急速に人気を博している。
北東インド、ベンガル、ゴア、ケララではサッカーも大変人気で、ナショナルチームは南アジアサッカー選手権で何度も優勝している。
2007年には、プロサッカーリーグのIリーグが、2014年には同じくプロサッカーリーグのインド・スーパーリーグがそれぞれ発足した。
2011年からは、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まってゆき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年と2007年はウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。その後、2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤがインド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックがヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。
インドの伝統的なスポーツであるカバディ、コーコー (kho kho) 、ギリ・ダンダ (Gilli-danda) なども全国で広く競技されている。またインド南部ケララ地方古来の武術[要曖昧さ回避]であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライも行われている。
2008年に開かれた北京オリンピック・男子エアライフルでアビナブ・ビンドラーが優勝、個人競技で初めての金メダルを獲得した。
インドは5000年の歴史があり、今に残る数々の歴史的遺跡の文化遺産や多様に富む自然と野生動物とさまざまで数は多い。2016年のインド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が27件、自然遺産が7件、複合遺産が1件の計35件存在する。なお、インドの世界遺産には暫定リスト記載物件が44件ある。
法律で決められ、全国一律に実施される祝日は下記3日。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月26日 | 共和国記念日 | Republic Day गणतंत्र दिवस | 1950年の憲法発布を祝う日 |
8月15日 | 独立記念日 | Independence Day स्वतंत्रता दिवस | 1947年にイギリスから独立した日 |
10月2日 | ガンディー生誕記念日 | Gandhi Jayanti गांधी जयंती |
他に各州によって祝祭日が設けられている場合があり、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の祭礼日がある。各企業では法律上の3日を含めて年間10日程度の休日を設けているが、どの日を休日にするかは一律でない。またヒンドゥー教に由来する祭日は太陽暦ではなく、インド特有の太陰太陽暦に基づいており、太陽暦上では2週間程度前後する。各地域で休日とされる日程のうち太陽暦に準拠する日は3回。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | 休みは1日のみ |
9月17日 | ヴィッシュヴァカルマン祭 | Vishvakarman Pooja विश्वकर्मा पूजा | 各地の工場で物造りの神ヴィシュヴァカルマンを讃える祭り。ヒンドゥー教で唯一太陽暦に準拠(アーンドラ・プラデーシュ州など一部地域のみ)。 |
12月25日 | クリスマス | Christmas | 全国的に休みとなる |
太陰太陽暦に基づく祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月 | ポンガル(タミル・ナードゥ州など南部)/マカラ・サンクラーンティ(主に北インド全般) | Pongal பொங்கல்/Makara Sankranti मकर संक्रांति | 冬至の時期に行われる収穫祭。 |
3月 | ホーリー | Holi होली | インド3大祭りに上げられる春祭り |
4月 | ラーマ降誕祭 | Ramnavmi रामनवमी | ラーマ神の誕生日を祝う |
7 - 8月 | ラクシャー・バンダン | Raksha Bandhan रक्षाबंधन | 女性が兄弟の手首に飾り紐を巻きつけて加護を願う祭り |
8月 | クリシュナ・ジャナマーシュタミー | Krishna Janamashtami कृष्ण जन्माष्टमी | クリシュナ神誕生日、北インドで盛大な祭り |
8 - 9月 | ガネーシャ祭 | Ganesh Chaturthi गणेश चतुर्थी | 西部のマハーラーシュトラ州で盛んな祭り。 |
10月 | ダシャーラー | Dassera दशहरा | インド3大祭りの一つ、ラーマ王子が悪魔に打ち勝った日を祝う |
10 - 11月 | ディーワーリー | Diwali दीवाली | インド3大祭りの一つ、富と幸福の女神ラクシュミーを祭る |
11月 | グル・ナーナク生誕祭 | Guru Nanak Jayanti गुरु नानक जयंती | シク教の開祖グル・ナーナクの誕生日 |
またキリスト教の Good Friday(3 - 4月)も休日として扱われる。この結果一つの会社内でも本社・支店・工場で休日が異なることが多い。8月のクリシュナ祭がデリー本社は休日だがムンバイ支店は営業日で、ガネーシャ祭は逆になるという事が起こる。
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