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この項目では、アメリカ合衆国のサンフランシスコについて説明しています。その他の用法については「サンフランシスコ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
サンフランシスコ City and County of San Francisco | |||||
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愛称 : The City by the Bay, Fog City | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯37度46分0秒 西経122度26分0秒 / 北緯37.76667度 西経122.43333度 / 37.76667; -122.43333 | |||||
行政 | |||||
国 | アメリカ合衆国 | ||||
州 | カリフォルニア州 | ||||
市郡 | サンフランシスコ | ||||
市長 | ロンドン・ブリード(英語版) | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市郡域 | 600.6 km2 (231.89 mi2) | ||||
陸上 | 121.4 km2 (46.87 mi2) | ||||
水面 | 479.2 km2 (185.02 mi2) | ||||
水面面積比率 | 79.79% | ||||
都市圏 | 9,128 km2 (3,524.4 mi2) | ||||
標高 | 16 m (52 ft) | ||||
人口 | |||||
人口 | (2014年現在) | ||||
市郡域 | 852,469人 | ||||
人口密度 | 7,022人/km2(18,187人/mi2) | ||||
市街地 | 8,607,423人 | ||||
都市圏 | 4,594,060人 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 太平洋標準時 (UTC-8) | ||||
夏時間 | 太平洋夏時間 (UTC-7) | ||||
公式ウェブサイト : sfgov |
サンフランシスコ市郡(英語: City and County of San Francisco、通称: San Francisco[1])は、アメリカ合衆国西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市。
キリスト教のフランシスコ会の修道士が創設者の聖フランシスコを街の名に付けたのが地名の由来である。漢字では、桑港や旧金山と表記される。桑港は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」(現代中国語普通話ではSāngfāngxīsīgē(サンファンシースーグー)の発音になる)の頭文字「桑」(サン)に、港町である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の日系社会でも使われるため、商店や日本語学校などの名称によく見られる。ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」はその代表である。一方の旧金山(舊金山)は、1849年に起こったカリフォルニア・ゴールドラッシュにちなんだ名称である。当初この地に労働者としてきた華人たちはサンフランシスコを「金山」と呼んだが、後にオーストラリア・ビクトリア州など他の地域でもゴールドラッシュが起きるとサンフランシスコは旧金山と呼ばれるようになった(「新金山」はメルボルンを指す)。現地の中国系社会では桑港と同様に広東語で「サンファンシー」の音を当てた三藩市が旧金山よりも多用される傾向があり、市当局も中文での名称を三藩市としている[2]。
アメリカの他地域では頭文字の「SF」や「フリスコ(Frisco)」といった愛称・略称で呼ばれることが多い。または「サンフラン」(San-Fran)の略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ばれることが多い。
ロサンゼルスと共にカリフォルニア州の経済、工業の中心地として知られており、金融センターとしてアメリカ西海岸では随一の重要性を持っている。2017年の調査によると、世界6位の金融センターであり、アメリカの都市ではニューヨークに次ぐ2位である[3]。サンフランシスコ自体の人口は776,733人(2000年国勢調査)だが、対岸のオークランドなどを含めた都市圏(MSA)の人口は4,123,747人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸のサンノゼを加えたサンフランシスコ・ベイエリア全体の人口は7,092,596人で広域都市圏(合同統計地域: CSA)としては全米6番目の規模である。(いずれも2000年国勢調査)それゆえに大規模なダウンタウンが形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。シリコンバレーやカリフォルニア大学バークレー校にも近く、コンピュータ系の企業も多い。
気候は地中海性気候に属し、一年を通して気温の差が比較的小さく、気候的にも住みやすい都市である。急な坂が多く、深い霧に覆われることでも有名である。都市部から13マイルほど南下すると、サンフランシスコ国際空港がある。
観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとしてゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)やフィッシャーマンズワーフ、ツインピークス等が挙げられる。市内を走る伝統あるケーブルカーも人気が高い。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界13位の都市と評価された[4]。アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴに次ぐ4位である。
世界的に著名な都市なので、ロサンゼルスと共に州都であると思われがちだが、誤りである(実際の州都はサクラメント。米国は原則として中小都市に州政府を置く伝統があり、ニューヨークもシカゴも州都ではない)。
ロンバード・ストリート
(ロシア坂)
この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る[5]。ガスパル・デ・ポルトラ率いるスペイン人の入植者が1769年11月2日に到達したのが、記録されている中ではヨーロッパ人による最初のサンフランシスコ湾到達であるが、それまで、インディアン部族オーロネ族のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった[6]。その7年後の1776年3月28日、スペイン人によってサンフランシスコ要塞(英語版)が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。
1821年、スペインからのメキシコ独立革命により、この地はメキシコの一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った[7]。彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、イェルバ・ブエナと名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。米墨戦争中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート代将がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、イェルバ・ブエナはサンフランシスコと改名され[8]、メキシコはグアダルーペ・イダルゴ条約で正式にこの一帯の領地をアメリカに割譲した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった[9]。
ところが、カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。サワードウ・ブレッドを携えた人夫[10]がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し[11]、競合するベニシアを超えるようになった[12]。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストが立ち並んだ[13]。サンフランシスコに市場ができると東海岸と西海岸を「陸路のパナマ」で繋いだ航路ができ、米国は本格的に太平洋航路の開拓に乗り出すことになる。1850年協定によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するためゴールデンゲート海峡の砦フォート・ポイントと、アルカトラズ島の砦を築いた。1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした[14]。鉱山の一旗組の中には無法者も多く、バーバリコースト地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった[15]。
ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。1852年にはウェルズ・ファーゴが設立され、1864年にはカリフォルニア銀行が設立された。サンフランシスコ港の発展により、街は交易の中心地となった。リーヴァイ・ストラウスは衣類の事業を、ドミンゴ・ギラーデリーはチョコレート製造業を始めた。様々な移民労働者の存在により、街には多様な文化が入り交じり、例えば中国人の鉄道労働者によってチャイナタウンが生まれた。1873年にケーブルカーが敷かれ、クレイ・ストリートの急な坂を上るようになった。ビクトリア様式の家々が立ち並ぶようになり、広い公園の必要が叫ばれるようになって、ゴールデン・ゲート・パークの計画につながった。学校、教会、劇場、その他様々な施設が建てられた。サンフランシスコ要塞は、太平洋岸におけるアメリカの最も重要な軍事施設となった[16]。20世紀を迎える時点で、サンフランシスコは、その華やかさ、豪華なホテル、ノブヒル地区のけばけばしい邸宅、そして芸術の繁栄で知られるようになった[17]。
1906年4月18日午前5時12分、サンフランシスコ地震がサンフランシスコ市内及びカリフォルニア北部を襲った。建物は倒壊し、破裂したガス管が引火して火災が発生し、数日間にわたって街中を焼き尽くした。水道管は使えなくなっていたので、サンフランシスコ要塞の砲兵隊は建物をダイナマイトで破壊することで防火帯を作り、火を封じ込めようとした[18]。街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまった[19]。当時の記録によれば、498人が命を落としたとされるが、現代の推計では死者は数千人に上るだろうと考えられている[20]。市の人口40万人のうち半数以上が住む家を失った[21]。避難者は、しばらくの間、ゴールデン・ゲート・パークや、要塞や、海岸などに設けられた間に合わせのテント村で生活した。また、サンフランシスコの東のイーストベイまで移住した人も多い。
その後、復興が急ピッチで進んだ。街路を一から設計しなおすよう求める声もあったが、サンフランシスコ市民は、スピードを優先した[22]。アマデオ・ジアニーニが創設したバンク・オブ・イタリー(後のバンク・オブ・アメリカ)は、生計の手段を奪われた人々に貸出しを行った。ノブヒル地区の倒壊した邸宅は、豪華ホテルとなった。サンフランシスコ市庁舎(英語版)は、見事なボザール様式で再建され、1915年のサンフランシスコ万国博覧会でその再生が祝われた[23]。
その後、サンフランシスコは、金融センターとしての地位を強固なものにしていった。1929年のウォール街大暴落の時でさえ、サンフランシスコの銀行は一つも破綻しなかった[24]。世界恐慌の最中も、サンフランシスコではサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ(1936年完成)とゴールデン・ゲート・ブリッジ(1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。なお、同じころ、軍事施設だったアルカトラズ島が連邦刑務所となり、アル・カポネ、マシンガン・ケリー、「バードマン」と呼ばれたロバート・フランクリン・ストラウドなどがここに収容された。さらに、1939年から1940年にかけては2度目の国際博覧会となるゴールデン・ゲート国際博覧会が開かれ、その会場として湾内に人工島トレジャー島が造成された。
第二次世界大戦中、ハンターズ・ポイント海軍造船所は軍事活動のハブとなり、フォート・メイソンが太平洋戦域に出発する兵士の乗船場となった[25]。雇用の爆発的な増大により、特に南部からのアフリカ系アメリカ人が職を求めて集まってきた。戦後、港に帰ってきた復員兵や、それまでに集まっていた労働者の多くが、そのままサンフランシスコに留まった。1945年、国際連合憲章がこの地で起草され、署名されたほか、太平洋戦争を正式に終結させるサンフランシスコ平和条約が締結された。
1950年代・1960年代の都市開発プロジェクトにより、市西部の取り壊しと再開発が進み、新しい高速道路の建設が始まった。もっとも、間もなく市民の反対運動が起こり、建設は間もなく停止に追い込まれた[26]。1972年、トランスアメリカ・ピラミッドビルが完成した[27]。1980年代にはサンフランシスコの「マンハッタン化」が進み、ダウンタウンに多数の高層ビルが立ち並ぶようになり[28]。港湾機能が次第にオークランド港に移転していくに伴って、市の製造業人口は減少を始め、代わって市の経済における重要性を増したのが観光である。郊外の発展が著しく、白人人口が市内を去り、アジア系・ラテンアメリカ系移民が流入した[29][30]。また、戦後、サンフランシスコはアメリカのカウンターカルチャーの舞台でもあった。1950年代、ビート・ジェネレーションの作家たちによってサンフランシスコ・ルネッサンスが提唱され、ノースビーチ地区がその中心地となった[31]。バークリーやオークランドとともに、サンフランシスコはアメリカでもベイエリアのリベラルな都市として知られるようになった。1960年代には、ヒッピーがヘイト・アシュベリー地区に集まり、1967年のサマー・オブ・ラブでその頂点を迎えた[32]。1970年代には、サンフランシスコは性的少数者(LGBT)の権利運動の中心地となり、カストロ通りはゲイ・タウンとして著名になった。活動家のハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコ市会議員に当選したが、1978年、ジョージ・マスコーニ市長とともに暗殺された[33]。
1989年にはロマ・プリータ地震が、サンフランシスコを含むベイ・エリアを襲った。マリナ地区やSoMa(サウス・オブ・マーケット)地区では建物の倒壊が激しく、エンバカデロ・フリーウェイ(州道480号)や、セントラル・フリーウェイの多くの部分が崩落した。なお、こうした高速道路の破壊を機に、市は歴史的な街並みの再建へ転じることになった。
1990年代後半のインターネット・バブル(ドットコム・バブル)の中、ベンチャー企業が経済の原動力となった。多くの起業家やコンピューター・アプリケーション企業がこの街に集まり、続いてマーケティングや営業の専門職が住むようになって、一時期は荒廃していた地区でジェントリフィケーションが進んだ。2001年、バブルが崩壊すると、これらの企業の多くが倒産し、その従業員も街を去った。とはいえ、その後も、ハイテク産業と起業家精神は、サンフランシスコの経済を支える屋台骨であり続けている[34]。
サンフランシスコは、アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島の先端に位置し、半島の周囲をめぐる太平洋とサンフランシスコ湾の広い海域も市の領域に含まれる。 アルカトラズ島、トレジャー島、イェルバ・ブエナ島(英語版)、アラメダ島の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232mi2 (600km2) である。
サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある[35]。ノブ・ヒル(英語版)、パシフィック・ハイツ(英語版)、ロシアン・ヒル(英語版)など、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。ツインピークスは、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘はマウント・デビッドソン(英語版)で、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた[36]。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔のスートロ・タワーがそびえ立っている。
サンアンドレアス断層とヘイワード断層(英語版)という二つの断層が、市域の近くを走っており、これが、多くの地震を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。市はこれまで度々建物の耐震基準を引き上げており、古い建物については補強工事を、新規の建設については高い耐震技術水準を求めている[37]。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている[38]。
サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。マリナ地区、ハンターズ・ポイント地区のそれぞれ全部、またエンバーカデロ(英語版)地区の大部分は、埋立地にある。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、液状化現象によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年のロマ・プリータ地震の時、マリナ地区で見られたとおりである[39]。
サンフランシスコの気候は、地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsbに当たる。冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く、乾燥している[40]。三方を海水面に囲まれているため、太平洋の冷たいカリフォルニア海流の影響により、季節による温度変化が少ない穏やかな気候である。気温が24°Cを超えるのは、年平均わずか29日である[41]。アメリカの主要都市の中では夏の気温が最も低い[42]。5月から10月までは乾燥しており、平均最高気温は月によって18°C から21°C 、平均最低気温は月によって11°C から13°Cである。一方,11月から4月までは雨が多く、平均最高気温は月によって14°Cから18°C、平均最低気温は月によって8°Cから11°Cである。雨の日は年平均67日、年平均降水量は518mmである[41]。雪が降ることは極めて稀で、記録の残る1852年以来、わずか10回しかない[43]。
アメリカ国立気象局による記録史上の最高気温は、1988年7月17日及び2000年6月14日の39°C、最低気温は1932年12月11日の零下3°Cである[44]。
カリフォルニア内陸の渓谷地帯で、暖められた空気が上昇して気圧が低くなるため、北太平洋高気圧からの風がゴールデン・ゲート海峡を通って内陸に向かい流れ込む。これによって、サンフランシスコ特有の夏期の霧が発生する[45]。ただし、市の中央部に連なる高い丘が海風をさえぎるため、市東部では霧は少なく、晴れの日が多く、降水量も西部より少ない。
サンフランシスコ(ダウンタウン)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 14.5 (58.1) |
16.3 (61.4) |
16.9 (62.5) |
18.1 (64.5) |
18.6 (65.4) |
19.8 (67.7) |
20.1 (68.2) |
20.7 (69.2) |
21.8 (71.3) |
21.3 (70.4) |
17.8 (64.1) |
14.8 (58.6) |
18.4 (65.1) |
平均最低気温 °C (°F) | 8 (46.4) |
9.2 (48.5) |
9.6 (49.2) |
10.1 (50.1) |
10.8 (51.4) |
11.8 (53.2) |
12.4 (54.4) |
13.1 (55.6) |
13.4 (56.1) |
12.6 (54.6) |
10.4 (50.8) |
8.2 (46.7) |
10.8 (51.4) |
雨量 mm (inch) | 119.9 (4.72) |
105.4 (4.15) |
86.4 (3.40) |
31.8 (1.25) |
13.7 (0.54) |
3.3 (0.13) |
1 (0.04) |
2.3 (0.09) |
7.1 (0.28) |
30.2 (1.19) |
84.1 (3.31) |
80.8 (3.18) |
565.9 (22.28) |
平均降雨日数 | 11.4 | 10.8 | 11.2 | 6.2 | 3.3 | 1.4 | 0.4 | 0.9 | 2.1 | 4.1 | 8.7 | 9.6 | 70.1 |
出典: NOAA [46] 2010-05-31 |
サンフランシスコの古くからの中心地は、市北東部の、マーケット・ストリートより北側の地域である。ここにはフィナンシャル・ディストリクトがあり、その近くには、ショッピング・スポットやホテルの集まったユニオン・スクエアもある。かつて金持ちの邸宅地だったノブ・ヒルと、海沿いのフィッシャーマンズワーフとを結ぶ急な坂には、ケーブルカーが走っている。フィッシャマンズワーフは、ダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)を使った料理などで有名な観光エリアである。同じく市北東部には、曲がりくねったロンバード・ストリートの坂道で知られるロシアン・ヒル、サンフランシスコのリトル・イタリーであるノースビーチ、コイト・タワーのあるテレグラフ・ヒルといった地区がある。またその近くには1860年代にできたサンフランシスコのチャイナタウンもある。
ミッション・ディストリクトは、19世紀、「カリフォルニオ」と呼ばれるラテンアメリカ系市民や、ドイツ、アイルランド、イタリア、スカンディナヴィアからの移民労働者が住む街であった。1910年代、中央アメリカ系移民がこの街に住みつき、1950年代にはメキシコからの移民が取って代わった[47]。現在はヴァレンシア通りを中心にジェントリフィケーションが急速に進んでいる。1960年代のヒッピー文化を育てたヘイト・アシュベリー地区は、高級なブティックが立ち並ぶ街へと変貌し[48]、チェーン店の開業に当たっては論争も起きた[49]。一方ではボヘミアンな雰囲気も残っている。カストロ通り付近(昔はユーレカ・バレーと呼ばれていた地域)はゲイカルチャーの中心地である[50]。
ポスト・ストリート沿いには、ジャパンタウン(日本人街)がある。第二次世界大戦の時には、ここに住む日系アメリカ人たちも強制収容された。そのころ、その近くのウェスタン・アディション地区には多くのアフリカ系アメリカ人が流れ込んできた。アラモ・スクエア(英語版)の近くには「ペインテッド・レディー(化粧をした婦人たち)」と呼ばれるビクトリア様式の建物が並び[51]、パシフィック・ハイツには1906年サンフランシスコ地震の後に富裕層が邸宅を構えるようになった。その更に北、マリナ・ディストリクトは、若いビジネスマンたちが住む活気のある街である[52]。
ゴールデン・ゲート・パークの北に位置し、西は太平洋まで広がる広大な地域がリッチモンド・ディストリクトであり、その中には「ニュー・チャイナタウン」と呼ばれる場所もあるが、その他のアジアやロシア系移民もたくさん住んでいる。ゴールデン・ゲート・パークの南には、アジア系住民が多く住むサンセット・ディストリクトが広がる[53]。リッチモンドとサンセットの両地区は、中流階級の居住地である。西側を「アウター・リッチモンド」と「アウター・サンセット」、東側を「インナー・リッチモンド」と「インナー・サンセット」と呼ぶこともある。一方、市南東部のベイビュー・ハンターズポイント地区は最貧地区で、高い犯罪率が問題となっている。ここには都市再開発の計画があるが、賛否をめぐり議論の的となっている。
SoMa(サウス・オブ・マーケット)地区は、再開発によって古い工業の街から生まれ変わり、1990年代後半のインターネットバブルを経て超高層ビルが立ち並ぶようになった。サウスビーチ地区も発展しており、さらに続いてミッション・ベイ地区も カリフォルニア大学サンフランシスコ校の第2キャンパス設置を中心に再開発が進んでいる。ミッション・ベイの南東にあるポトレロ・ヒルからは、サンフランシスコのダウンタウンを見渡すことができる。
ゴールデン・ゲート国立保養地は、年間1300万人もが訪れ、アメリカの国立公園の中でも訪問者が多い公園である。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。オーシャン・ビーチは太平洋に面し、サーフィンがさかんである。ベーカー・ビーチは、ゴールデン・ゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞であるプレシディオの一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は飛行場であったが、自然の姿であった塩沼を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、アルカトラズ島もある。これとは別に、アメリカ合衆国国立公園局が管理する公園としてサンフランシスコ国立海洋歴史公園がある。
また、サンフランシスコ市レクリエーション・公園局が管理する市立公園は、200を超える[54]。その中でも最大で、かつ有名なのが、ゴールデン・ゲート・パークである[55]。市の中央部から、西に向かい太平洋まで帯状に広がっている。昔は自然の草木や砂丘に覆われていたが、1860年代に公園としての整備が始まり、何千種もの植物が移植された。温室植物園、ジャパニーズ・ティー・ガーデン、サンフランシスコ植物園などの多くの園内施設がある。淡水湖のマーセド湖の近くには、250種以上の動物(多くが絶滅危惧種)がいる市立のサンフランシスコ動物園がある[56]。
一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである[57]。
人口推移 | ||
---|---|---|
年 | 人口 | ±% |
1848 | 1,000 | — |
1849 | 25,000 | +2400.0% |
1852 | 34,776 | +39.1% |
1860 | 56,802 | +63.3% |
1870 | 149,473 | +163.1% |
1880 | 233,959 | +56.5% |
1890 | 298,997 | +27.8% |
1900 | 342,782 | +14.6% |
1910 | 416,912 | +21.6% |
1920 | 506,676 | +21.5% |
1930 | 634,394 | +25.2% |
1940 | 634,536 | +0.0% |
1950 | 775,357 | +22.2% |
1960 | 740,316 | −4.5% |
1970 | 715,674 | −3.3% |
1980 | 678,974 | −5.1% |
1990 | 723,959 | +6.6% |
2000 | 776,733 | +7.3% |
2010 | 805,235 | +3.7% |
2012 | 825,863 | +2.6% |
Sources:[58][59][60]
「Population Graph」も参照 |
2000年現在の国勢調査[61]で、この都市は人口776,733人、329,700世帯及び145,068家族が暮らしている。人口密度は合衆国内で2番目の密集都市(および5番目の密集郡)である、6,423.2/km2(16,634.4/mi2)[62]。2,865.6/km2(7,421.2/mi2)の平均的な密度に346,527軒の住宅が建っている。この都市の人種的な構成は白人49.66%、黒人7.79%、インディアン0.45%、アジア30.84%、太平洋諸島系0.49%、その他の人種6.48%、混血4.28%である。人口の14.10%はヒスパニックまたはラテン系である。
民族構成は中華系19.6%、アイルランド系8.8%、ドイツ系7.7%、及びWASP6.1%である。サンフランシスコはアメリカ合衆国内で最大の中華系人口でありハワイ州以外で最大のアジア系人口を持っている。リッチモンド内のGeary ブルーバードは栄えたロシア系コミュニティーの本拠地となっている。
329,700世帯のうち、16.6%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、31.6%は夫婦で生活している。8.9%は未婚の女性が世帯主であり、56.0%は結婚していない。38.6%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.8%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.30人であり、結婚している家庭の場合は3.22人である。
住民は14.5%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が9.1%、25歳以上44歳以下が40.5%、45歳以上64歳以下が22.3%、および65歳以上が13.7%にわたっている。中央値年齢は36歳である。女性100人ごとに対して男性は103.4人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は103.1人である。
世帯ごとの平均的な収入は55,221米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は63,545米ドルである。男性は46,260米ドルに対して女性は40,049米ドルの平均的な収入がある。一人当たりの収入は34,556米ドルである。人口の11.3%及び世帯の7.8% は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の13.5%及び65歳以上の10.5%は貧困線以下の生活を送っている。
サンフランシスコの沿岸部から山間部、モントレーには、スペイン人が「コスタノ族」と名付けたインディアン部族の「オーロネ族」が、葦を編んで家屋やカヌーを作り、漁猟や狩猟採集を営んで生活していた。しかし、19世紀に押し寄せた白人による土地収奪によって衰退し、20世紀初頭には「絶滅した」として、保留地(Reservation)など、アメリカ連邦政府との連邦規定に準ずるすべての権利を剥奪された。
サンフランシスコ・ベイエリアには、このオーロネ族の「ムウェクマ・バンド」の部族員約400人が暮らしているが、彼らも「絶滅した」ことになっているので保留地を領有出来ない。彼らの伝統的な墓地と貝の土塁は「遺跡」扱いされて1980年代に破壊され、部族の猛抗議を無視してショッピング・センター「ベイ・ストリート・モール」が建てられた。この「遺跡」から奪われたオーロネ族の先祖数万人分の遺骨は、カリフォルニア大学バークレー校で展示されている。
2006年9月21日に、彼らはアメリカ連邦政府から認定に関して「好意的な対応」をされており、連邦登録と「復活」への期待が高まっている。
1958年以降、保留地の解消方針に沿った「インディアン移住計画」がアメリカ連邦政府によって施行され、オーロネ族以外の多数のインディアンが周辺から流入した。現在、彼らの互助組織として「アメリカインディアンの友好の家協会(Friendship House Association of American Indian Inc)」が設置されている。
1960年代に起こったインディアンたちの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(Red Power movement)」は、同州でも高まりを見せ、1969年には、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島で、アルカトラズ島占拠事件が決行された。この1969年は、コロンブスの上陸を祝う「コロンブス・デー」の記念祝祭に対し、「インディアンを弔う日」として、サンフランシスコのインディアンたちが黒い腕章をつけ、ティピーを建てて抗議を行った最初の年となった。
1995年には、ディズニーのアニメ映画「ポカホンタス」の公開に抗議して、全米のインディアンたちによる大規模なデモ行進が行われた。
サンフランシスコは半島に突き出た丘陵地帯という地形から、アメリカ国内ではニューヨークに次いで公共交通機関への依存度が高い大都市である。また、市内人口がそこまで多くはなく、事業所もサンフランシスコの中心部だけではなくベイエリア全体に分散していることから、地下鉄はBARTやMuniのマーケットストリート区間を除いて発達せず、路面電車やトロリーバスの比重が高い。
ユナイテッド航空やアメリカン航空、デルタ航空やアラスカ航空などの国内線が多数発着するほか、全日空(ANA)、日本航空やチャイナエアライン、ブリティッシュ・エアウェイズやメキシカーナ航空をはじめとする国際線も多く発着している。また、対岸のオークランド国際空港もサンフランシスコ地域の主要空港の1つとして使用されている。
サンフランシスコは水路に遮られているために、通過する道路は少ない。主要な高速道路としては、ベイブリッジのサンフランシスコ側を基点としてベイブリッジを渡り東に伸びる州間高速道路80号線(I-80)、サンフランシスコ中心街から南に延びるインターステート280号線、中心街から南部と北部に延びる国道101号線がある。
市内は坂が多い上に半島であるため土地もないため、駐車場料金が非常に高い。そのため、後述のBARTやカルトレインなどの郊外の駅の多くに駐車場が併設されていて、これを使ったパークアンドライドが盛んである。
サンフランシスコ湾をはさんだ対岸のエメリービル(またはオークランド)からアムトラックの列車が発着している。それらの列車を利用するためにサンフランシスコのダウンタウンから連絡バスが運行されている。
シリコンバレーを中心としたITブームや、最近のインターネットバブルによりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている[63]。サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、エンバーカデロの再開発が進んだ。それにつれて、ブルーカラー層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、ジェントリフィケーションが進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった[64][65][66]。大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、カリフォルニアセントラルヴァレーへ移り住んでいった[67]。
フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られているが、同時にそれを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も、文化的な多様性があり、中心部から気軽に歩いて足を延ばせることから、サンフランシスコの特色となっている。そのため、サンフランシスコに対しては、「最も歩きやすい街」という評価もある[68][69]。これらの多用途地区には、ビジネス、レストラン、コンサート会場などがあり、多くの市民や観光客が利用している。カウ・ホロー地区のユニオン・ストリートや、ノイ・バレー地区の24番ストリートのように、ブティック、カフェ、ナイトスポットが混じる街もある。こうした街づくりは、SOMA(サウスオブマーケット)地区におけるビジネスと住民サービスが並行する再開発などにも影響を及ぼしている[70]。
サンフランシスコは、誕生以来、今日に至るまで、アジアやラテンアメリカの移民を多く受け入れ、国際色あふれる街となっている。市民の39%が海外生まれで[71]、こうした市民の需要に応える会社や施設が集まった地区も多い。中でも、1970年代から急増した中国系移民は、古くからチャイナタウンを中心に栄えてきたコミュニティを活性化し、毎年行われる旧正月の祭りは、中国国外で最大のものに成長した[72]。
1950年代におけるビート・ジェネレーションと言われる作家・芸術家らの流入、1960年代のヘイト・アシュブリーにおけるサマー・オブ・ラブでピークに達した社会変動を経て、サンフランシスコはリベラル派の牙城となった。民主党及びアメリカ緑の党が市政を握っている。1988年以来、大統領選挙や上院議員選挙で共和党の得票率は20%未満である[73]。例えば、2006年、サンフランシスコの監理委員会(郡行政執行機関)は「ヘルシー・サンフランシスコ」プログラムを制定し、健康保険のない市民への医療に補助金を支給することを決めた[74]。
また、ゲイ人口が多く、その政治的・文化的な影響力も大きい。世界のゲイの人々にとっては最も人気のある観光地であり、世界最大・最古のゲイ・パレードである「サンフランシスコ・プライド」が開かれる。
サンフランシスコはSister Cities International, Inc. (SCI)によって指定された、15の姉妹都市を有している。
詳細は「慰安婦像#カリフォルニア州 サンフランシスコ市」を参照
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元はポピュラーソングや映画主題歌であった2曲が制定されている。
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Japantown(日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。日本や韓国、中華のレストラン、スーパーマーケット、ショッピングモール、ホテル、銀行、紀伊國屋書店の支店など多数の店がある。Post Street が大通りで、中心には1968年開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。パゴダは大阪の人々によって寄贈された。
カリフォルニア州北部最大の日本町で、第二次世界大戦前からある日本町。日本の真珠湾攻撃後、アメリカ政府は日系アメリカ人を強制収容所に収容した(日系人の強制収容)。その後軍需産業を探しに来たアフリカ系アメリカ人が居住した。戦後一部の日本人は戻り地域の再復興を行った、1960年代から1980年代の大規模な再開発の時期に、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地、西部 Filmore District、東部 Tenderloin、南部 Hunters Point に移動した。同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、日本政府、企業による投資が行われた。
日本人のサンフランシスコ移住は、19世紀末に始まり、1884年には約200人[78]、1886年には領事館調べで約500人、実際には1000人近くがいた[79]。日本人の居住はその後も増え続け、サンフランシスコは排日の本場と言われるほど米国白人からの反発を買うようになった[80]。
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