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新幹線 | |
---|---|
基本情報 | |
国 | 日本 |
種類 | 高速鉄道 |
開業 | 1964年10月1日 |
所有者 |
|
運営者 | JR各社(詳細は路線節を参照) |
詳細情報 | |
総延長距離 | フル規格2,765 km、ミニ新幹線276 km |
路線数 | フル規格7路線、ミニ新幹線2路線 |
駅数 | 109(ミニ新幹線2路線、在来線扱い2路線を含む) |
軌間 | 1,435 mm |
電化方式 |
交流25,000 V 架空電車線方式(東北、上越、北海道は50 Hz。東海道、山陽、九州は60 Hz。北陸は50 Hzと60 Hzの区間が混在) 交流20,000 V 50 Hz 架空電車線方式(山形、秋田) |
最高速度 | 最速320 km/h(東北新幹線の一部区間。詳細は定義節を参照) |
通行方向 | 左側通行 |
路線図 | |
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新幹線(しんかんせん)は、JRグループが運営する日本の高速鉄道である。
1987年(昭和62年)3月31日までは日本国有鉄道(国鉄)が、同年4月1日からはJRグループ5社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州)が運営している日本の高速鉄道である。
1964年(昭和39年)10月1日に東京駅 - 新大阪駅間に開業した東海道新幹線に始まり、国鉄時代には山陽・東北・上越の各新幹線が開業した。JR化後も、従来のJR線(在来線)と新幹線とで直通運転を行うミニ新幹線として山形・秋田の2路線が開業し、高速運転が可能な本来の新幹線規格(フル規格)でも北海道・北陸[注 1]・九州(鹿児島ルート)の3路線が開業に至るなど、新幹線網の拡大は半世紀にわたって続けられている。2016年現在も北海道・北陸・中央・九州(長崎ルート)の各新幹線が建設中である。
2016年現在、フル規格7路線(合計2,765 km)とミニ新幹線2路線(合計276 km)が営業中で、2015年度の年間利用者数は3億6000万人に上る[1]。
従来の鉄道にはなかった時速200キロメートルを超える高速運転を行うため、新たに線形の良い(急カーブや急坂が少なく緩やかな)専用の高速路線を建設する。軌間(レールの間隔)は在来線の狭軌(1,067 mm)より幅の広い標準軌(1,435 mm)で、架線の電圧も在来線の交流2万ボルトより高い交流2万5000ボルトとなっている。車両も専用のものが用いられ、流線形で車体も大きな新幹線車両によって運転される。高速性と低騒音性を両立させるため、先頭形状は新型車両が登場するたびに進化を続けており、先頭部以外にもパンタグラフをはじめ随所に工夫が施されている。
高架橋やトンネルなどが多く、踏切も無い新幹線では、通常の鉄道よりもさらに定時性が高く、年間12万本もの列車が運転される東海道新幹線でも平均遅延時間は36秒に留まる(2011年度)[2]。また、50年以上に渡る新幹線の歴史の中で、車両や線路の施設や設備の異常、運行する側の不手際等に起因する乗客等の死亡事故は一度も発生していないため、「新幹線の安全神話」と言われる。
全国新幹線鉄道整備法では、新幹線鉄道を「その主たる区間を列車が200キロメートル毎時(以降km/hと記す)以上の高速度で走行できる幹線鉄道」(第2条)と定義している[3]。「その主たる区間」であるから、局所的に200 km/h未満の速度でしか走行できない区間が存在しても新幹線鉄道である。新幹線を法律で定義しているのは、在来線とは異なる運転規則や構造規則(いずれも省令)が必要なためである。
列車の運行を妨げる行為に対しては、一般の鉄道でも鉄道営業法や刑法などに規定があるが[4]、それに加えて、新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法(新幹線特例法)などによって、より厳しい法的措置が定められている[4]。
ミニ新幹線と呼ばれている山形新幹線・秋田新幹線は、これらも一般に新幹線と称されており、また、時刻表にもそのように記載されている。しかしながら、これらは路線名称ではなく、そしてすべて在来線である(通称と列車名、路線名の扱いについては各記事を参照のこと)。これらの路線には新幹線車両が直通するが、在来線を改軌し、高速走行に対応したいくらかの設備を追加した程度であり「新幹線鉄道構造規則」に準じた構造(後述の路線・軌道設備を参照)を持っているわけではない。例えば、目視による安全確認を要する信号機とATSの組み合わせによる列車防護、踏切道の存在など在来線と変わらないままである。当然に新幹線特例法の範囲外であり、全国新幹線鉄道整備法の上でも、新幹線鉄道としては扱われない[5]。
開業年月日 | 路線 | 分類 | 最高速度 | |
---|---|---|---|---|
開業時 | 2016年現在 | |||
1964年10月01日 | 東海道新幹線 | 新幹線 | 210 km/h | 285 km/h |
1972年03月15日 | 山陽新幹線 | 300 km/h | ||
1982年06月23日 | 東北新幹線(盛岡駅以南) | 320 km/h | ||
1982年11月15日 | 上越新幹線 | 240 km/h | ||
1992年07月01日 | 山形新幹線 | ミニ新幹線 | 130 km/h | 130 km/h |
1997年03月22日 | 秋田新幹線 | |||
1997年10月01日 | 北陸新幹線[注 1] | 整備新幹線 | 260 km/h | 260 km/h |
2002年12月01日 | 東北新幹線(盛岡駅以北) | |||
2004年03月13日 | 九州新幹線(鹿児島ルート) | |||
2016年03月26日 | 北海道新幹線 | |||
2022年度予定 | 九州新幹線(長崎ルート) | 0(建設中) | ||
2027年予定 | 中央新幹線 | リニア新幹線 | 505 km/h | 0(建設中) |
日本国有鉄道(国鉄)時代の1964年(昭和39年)10月1日に開業した東海道新幹線が初の路線である[6][7]。東海道新幹線のほか山陽新幹線と東北新幹線は国鉄が建設主体であった[8]が、上越新幹線は日本鉄道建設公団が建設を担当した[8]。国鉄分割民営化後の東北・上越新幹線東京延伸の際は、当時新幹線の地上設備を一括して所有していた[9]新幹線鉄道保有機構が、その建設主体であった[10]。さらにその後に建設された北陸新幹線や九州新幹線などのいわゆる整備新幹線については、日本鉄道建設公団および新幹線鉄道保有機構の権利を継承した鉄道建設・運輸施設整備支援機構が建設主体となっている。一方で、整備新幹線には該当しない中央新幹線については東海旅客鉄道(JR東海)が建設主体に指名された。
なお、全国新幹線鉄道整備法第4条には、新幹線建設計画は国土交通大臣[11]、すなわち国が決定するものと定められている[5]。
新幹線とは、元来、「新幹線鉄道」(従来の幹線鉄道に対する「新しい幹線鉄道」の意)という語の略称と考えられるが、この略称が普及・定着し、一般に固有名詞として用いられている。法律上、最初に「新幹線鉄道」の語が現れるのは、昭和39年6月22日法律第111号「東海道新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法」(現「新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法」)である。東海道新幹線は在来線である東海道本線の線増として建設されたために「東海道新幹線鉄道」とされた。
駅内の案内板等では、英語の路線名表記として 英語: Shinkansen を使用し、列車名を表す場合は、各駅停車も含め 英語: Superexpress を付けて「NOZOMI Superexpress」のように表示している。JRグループでは「特急」(特別急行)のことを 英語: Limited express(リミテッド エクスプレス)と表現しており、それをさらに超える急行という意味の「超特急」(超特別急行)を、英語に意訳したのがこの Superexpress(スーパーエクスプレス)という語である。車内放送でも、英語にて「Welcome to the Shinkansen. This is the NOZOMI superexpress,」などと自動放送されている。
日本以外の国々では、新幹線について言及する際は、日本語をローマ字表記に変換した「Shinkansen」と表記し呼称されている。
新幹線鉄道は、その大部分の区間において200 km/hを超える速度で運行するため、在来線鉄道とは異なったさまざまな技術が用いられている。速度のみならず、乗り心地や安全面でも世界的に見ても非常に高い水準が確保されている。
新幹線では、動力を編成各車両に分散させる「動力分散方式」が採用されている。動力分散方式を採用することにより、電車方式と同様の、加減速性能の向上・軽量化・軌道への負荷軽減といった利点が追求されている。 また、高速走行を行うため、列車編成内における電動車(動力車)の比率(MT比)が極力大きくされている。ブレーキは主電動機の発電抵抗を利用する電気ブレーキと、空気圧動作の摩擦による基礎ブレーキを併用するが、高速域からの減速には主に電気ブレーキが使用される。こうすることによって制輪子の磨耗を抑え、交換周期を延ばすことができる。
また、車両には気密構造が採用されている。高速運転時にトンネルに進入するなどの気圧変動による居住性の低下を防ぐためである。また、0系や100系など国鉄時代の東海道・山陽新幹線車両では車体の素材に普通鋼が使われていたためやや重かったが、東北・上越新幹線用の200系からは耐雪装備による重量増加を抑えるためアルミニウムが用いられて軽量化が図られた。国鉄民営化後に開発された新幹線車両はアルミニウム車体が一般化、さらにアルミ材の加工手法の発達により、製作費のコストダウンとさらなる軽量化の両立が図られた。この結果、国鉄時代に開発された初期新幹線車両より著しく軽量化されている。
一方で、JR発足以降積極的に行われた高速化に伴い、走行中のパンタグラフと架線の接触や風切り音による騒音の発生や、接触部の著しい消耗などが問題とされた。このため、0系では2両おきに付いていたパンタグラフが300系では8両毎に1つに減ったほか、500系では翼型と呼ばれるT字型の特殊な集電装置が設置されるなど改良され、騒音を抑えながら集電効率を向上させた。また、パンタグラフに流線型の突起物を取り付けるなどの改良も加えられた。その他、高速でのトンネルの突入時のトンネル内部の急激な気圧変化による騒音(トンネル微気圧波)の発生を抑えるための、走行時の空気の流動性やトンネル進入時の面積変化率を考えた先端車両の開発などが行われているため、初期の0系に比べ先頭車先端部が長く伸ばされるとともに、通常の電車とは著しく異なった形態(鋭い流線型やカモノハシのような形)を呈する傾向にある。
高速走行を行うため、在来線と同じ信号炎管や軌道短絡器による列車防護(他の列車を停止させること)では他の列車が停止しきれない可能性が高まる。そのため、緊急時に他の列車を迅速に停止させられるように在来線とは異なる列車防護の方式が採られている。
まず1964年に東海道新幹線が開業し、これを延長する形で山陽新幹線の工事も始まり、1975年に博多駅まで全線開業した。
そして1970年には全国新幹線鉄道整備法が定められた。これによりまず東北・上越・成田の各新幹線の整備計画が決定し、続いて北海道新幹線、東北新幹線(盛岡市 - 青森市間)、北陸新幹線、九州新幹線鹿児島ルート、同長崎ルート(西九州ルート)の5線の整備計画も決定された(整備新幹線)。
整備新幹線以前に計画された路線は、計画が失効した成田新幹線をのぞき開業しており、整備新幹線の一部も開業している。しかしその一方で、基本計画が定められたまま着工の目処が全く立っていない路線も存在する。
東海道新幹線と山陽新幹線を併せて「東海道・山陽新幹線」、東北新幹線と上越新幹線を併せて「東北・上越新幹線」と呼ぶことがある。東海道・山陽新幹線は国鉄時代は一体的な運用がなされており、民営化後も多くの列車の相互直通運転が行われているため一括して扱われることが多い。1982年に東北・上越新幹線が開業するまでは単に「新幹線」と呼ばれることもあった。東北・上越新幹線は1982年に相前後して開業した東側のフル規格新幹線で、東海道・山陽新幹線のような一体的な運用はないが、一部の区間を共用するほか、車両やATCなどの運行システムが共通である。
このほか、東海道・山陽新幹線にならって相互直通運転がなされている新幹線同士を総称し、「山陽・九州新幹線」「東北・北海道新幹線」などのように呼ぶことがある。
以下の7路線が開業している。北陸新幹線・北海道新幹線は一部分のみの開業である。
名称 | 起点 | 終点 | 営業キロ | 実キロ | 駅数 | 開業年月日 | 運営会社 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
北海道新幹線[* 1] | 新青森駅 | 新函館北斗駅 | 148.8 km | 148.8 km | 4 | 2016年3月26日 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
東北新幹線 | 東京駅 | 新青森駅 | 713.7 km | 674.9 km | 23 | 1982年6月23日:大宮駅 - 盛岡駅 1985年3月14日:上野駅 - 大宮駅 1991年6月20日:東京駅 - 上野駅 2002年12月1日:盛岡駅 - 八戸駅 2010年12月4日:八戸駅 - 新青森駅 |
東日本旅客鉄道(JR東日本) |
上越新幹線 | 大宮駅 | 新潟駅 | 303.6 km | 269.5 km | 10 | 1982年11月15日 | 東日本旅客鉄道(JR東日本) |
北陸新幹線 | 高崎駅 | 上越妙高駅 | 176.9 km | 176.9 km | 8 | 1997年10月1日:高崎駅 - 長野駅 2015年3月14日:長野駅 - 上越妙高駅 |
東日本旅客鉄道(JR東日本) |
上越妙高駅 | 金沢駅 | 168.6 km | 168.6 km | 6 | 2015年3月14日 | 西日本旅客鉄道(JR西日本) | |
東海道新幹線 | 東京駅 | 新大阪駅 | 552.6 km | 515.4 km | 17 | 1964年10月1日 | 東海旅客鉄道(JR東海) |
山陽新幹線 | 新大阪駅 | 博多駅 | 644.0 km[* 2] | 553.7 km | 19 | 1972年3月15日:新大阪駅 - 岡山駅 1975年3月10日:岡山駅 - 博多駅 |
西日本旅客鉄道(JR西日本) |
九州新幹線 (鹿児島ルート)[* 3] |
博多駅 | 鹿児島中央駅 | 288.9 km | 256.8 km | 12 | 2004年3月13日:新八代駅 - 鹿児島中央駅 2011年3月12日:博多駅 - 新八代駅 |
九州旅客鉄道(JR九州) |
計 | 2,997.1 km | 2,764.6 km | 92 |
JR東日本とJR北海道は東北新幹線と北海道新幹線で、JR東日本とJR西日本は北陸新幹線で、JR東海とJR西日本は東海道新幹線と山陽新幹線で、JR西日本とJR九州は山陽新幹線と九州新幹線で、それぞれ相互直通運転を行っている。以前、山形新幹線用・秋田新幹線用の車両の一部は保有会社からの貸出であったが、現在はすべてJR東日本の所有する車両で運行されている。
東京駅では東海道新幹線と東北新幹線の線路が接続されていないため、博多や新大阪から新函館北斗まで(その逆も)直通列車で行くことはできず、東京駅での乗り換えが必要となる。国鉄時代の利用状況の調査で東京都内を通過する需要が非常に小さいということは判明していたが、当時博多・札幌開業の際には夜行列車の運転も計画されていた。そのため、全列車が東京駅での折り返すのであれば、ホームの容量は大幅に不足するとみられていた。そこで、両線を直通運転として東海道の列車は田端基地、東北・上越の列車は品川基地での折り返しとすることとして建設計画が立てられた。あわせて、田端以北に異周波デッドセクションを設けることが計画され、直通運転の試験車両として961形も製造された。実際に、東京駅の東海道新幹線14・15番線ホームは直通を想定して作られたため、ホームが東北新幹線側にカーブしている。それでも、東京駅のホーム容量が不足する状態となったときは、上越新幹線を大宮駅から新宿駅へ分岐させる構想としていた[21]。しかし、ダイヤの乱れが相互に波及し運転管理面に多くの問題が予想されること、周波数が、東海道・山陽新幹線:60 Hz・東北・上越新幹線:50 Hzと異なることや、東北・上越新幹線用のものには降雪対策が施された車体設計にしなければならない点などから、1996年に計画の中止が発表された[22]。計画については、「東北新幹線#東海道・山陽新幹線との直通運転」も参照。
新幹線規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改軌した上で新幹線路線と直通運転(新在直通運転)できるようにした方式。以下の2路線が開業している。過去には東北新幹線の盛岡以北および北陸新幹線の軽井沢以西もミニ新幹線として建設することが検討されたが、結局フル規格で建設された。
名称 | 起点 | 終点 | 営業キロ | 駅数 | 開業年月日 | 正式路線名 | 運営会社 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
秋田新幹線 | 盛岡駅 | 秋田駅 | 127.3 km | 6 | 1997年3月22日 | 田沢湖線:盛岡駅 - 大曲駅 奥羽本線:大曲駅 - 秋田駅 |
東日本旅客鉄道(JR東日本) |
山形新幹線 | 福島駅 | 新庄駅 | 148.6 km | 11 | 1992年7月1日:福島駅 - 山形駅 1999年12月4日:山形駅 - 新庄駅 |
奥羽本線(山形線) | 東日本旅客鉄道(JR東日本) |
新幹線の回送線を旅客扱いするようにしたものであるが、距離が短く高速運転を行わないなどといった理由で在来線扱いになっている。しかし車両や設備は新幹線のものであるため、これらの路線を走る列車は一般の「特急列車」扱いとされ、乗車の際には乗車券のほかに特急券を要する。
名称 | 起点 | 終点 | 営業キロ | 駅数 | 開業年月日 | 運営会社 |
---|---|---|---|---|---|---|
上越線(支線)[* 1] | 越後湯沢駅 | ガーラ湯沢駅 | 1.8 km | 2 | 1990年12月20日 | 東日本旅客鉄道(JR東日本) |
博多南線[* 2] | 博多駅 | 博多南駅 | 8.5 km | 2 | 1990年4月1日 | 西日本旅客鉄道(JR西日本) |
新幹線では通常、東京駅 - 上野駅間や東京駅 - 品川駅間などの短距離区間であっても、自由席特定特急料金として840円が必要となる。しかし上記の区間は在来線特急扱いであるため、特定特急料金がJRの特急料金では最低の100円となる。
路盤・トンネルなどの構造物を新幹線規格で建設し、軌間1,067 mm(狭軌)のレールを敷設して在来線の車両を走らせるもので、「スーパー特急方式」とも呼ばれる。北陸新幹線と九州新幹線鹿児島ルート・長崎ルートのそれぞれ一部区間は、当初この方式で着工されたが、後に標準軌新線(フル規格)に変更された。
以下の路線は通常の在来線として開業したが、将来の新幹線路線の敷設を考慮し、新幹線規格で建設されている。なお、海峡線は2016年(平成28年)3月から北海道新幹線と共用である。
名称 | 起点 | 終点 | 営業キロ | 開業年月日 | 運営会社 |
---|---|---|---|---|---|
海峡線 | 中小国駅[* 1] | 木古内駅 | 87.8 km | 1988年3月13日 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
本四備讃線 | 茶屋町駅 | 児島駅 | 12.9 km | 1988年3月20日 | 西日本旅客鉄道(JR西日本) |
児島駅 | 宇多津駅 | 18.1 km | 1988年4月10日 | 四国旅客鉄道(JR四国) |
1970年(昭和45年)5月18日に公布された全国新幹線鉄道整備法に基づき基本計画線が挙げられたが、オイルショックや国鉄の経営悪化などの影響を受けて、以下の新幹線の着工は見送られた。このうち整備新幹線は平成に入って着工したが、基本計画のまま着工の目処が全く立っていない路線も存在する。この区間については建設を望む声が根強く残っている区間や、フリーゲージトレインによる新幹線との直通運転が提案されている区間も存在する。
1973年(昭和48年)11月13日に整備計画が決定したいわゆる「整備新幹線」と、2011年(平成23年)5月26日に整備計画が決定した中央新幹線がある。
名称 | 起点 | 終点 | 線路延長 | 開業予定 | 状況 | 営業主体 |
---|---|---|---|---|---|---|
北海道新幹線 | 新函館北斗駅 | 札幌駅 | 211.5 km | 2030年度 | 建設中 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
北陸新幹線 | 金沢駅 | 敦賀駅 | 125.2 km | 2022年度 | 建設中 | 西日本旅客鉄道(JR西日本) |
敦賀駅 | 新大阪駅 | 未着工 | ||||
九州新幹線 (長崎ルート) |
武雄温泉駅 | 長崎駅 | 66.0 km | 2022年度より 早期目標 |
建設中 | 九州旅客鉄道(JR九州) |
名称 | 起点 | 終点 | 線路延長 | 開業予定 | 状況 | 営業主体 |
---|---|---|---|---|---|---|
中央新幹線[* 1] | 品川駅 | 名古屋駅 | 285.6 km | 2027年 | 建設中 | 東海旅客鉄道(JR東海) |
名古屋駅 | 新大阪駅 | 約152 km | 2037年 | 未着工 |
名称 | 起点 | 終点 | 線路延長 |
---|---|---|---|
北海道新幹線 | 北海道札幌市 | 北海道旭川市 | 約130 km |
北海道南回り新幹線 | 北海道山越郡長万部町 | 北海道札幌市 | 約180 km |
羽越新幹線 | 富山県富山市 | 青森県青森市 | 約560 km |
奥羽新幹線 | 福島県福島市 | 秋田県秋田市 | 約270 km |
北陸・中京新幹線 | 福井県敦賀市 | 愛知県名古屋市 | 約50 km |
山陰新幹線 | 大阪府大阪市 | 山口県下関市 | 約550 km |
中国横断新幹線 | 岡山県岡山市 | 島根県松江市 | 約150 km |
四国新幹線 | 大阪府大阪市 | 大分県大分市 | 約480 km |
四国横断新幹線 | 岡山県岡山市 | 高知県高知市 | 約150 km |
東九州新幹線 | 福岡県福岡市 | 鹿児島県鹿児島市 | 約390 km |
九州横断新幹線 | 大分県大分市 | 熊本県熊本市 | 約120 km |
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新幹線の列車名(列車愛称)は、東海道・山陽・九州新幹線では速度別につけられているが、JR東日本の路線では方向・目的地別につけられている。E1系・E4系「Max」を使用する場合は列車名の前に「Max」が付く。JR東日本の山形・秋田の新在直通列車は列車名が単一である。JR東日本の北陸新幹線とJR九州の九州新幹線も部分開業時は列車名が単一であった。
日本の鉄道は明治時代の草創期にコストの面から狭軌を採用したため、その規格の低さに制約を受け、欧米の鉄道のような高速運転とは無縁であった。最高速度は1910年代から1950年代まで100 km/h以下に留まっていた。
そこで標準軌に改軌する提案も、明治から大正にかけて何度か出されていたが、政争や予算問題などから結局実現しなかった(日本の改軌論争も参照)。
また1910年代には、東京 - 大阪間に電車による高速新路線「日本電気鉄道」を敷設する計画が民間から出されたが、国の許可するところとならず、実現には至っていない。
日本における現実的な高速列車開発は、日本の勢力下にあった満州(現在の中国東北部)を縦断する南満州鉄道(満鉄)に始まる。同社は日本の資本と技術により運営されており、ほとんどの幹部・技術者が日本人で、実質的に日本の鉄道と言っても過言ではない。
当時の満鉄は電化以前の鉄道で蒸気機関車牽引であったが、1,435 mmの国際標準軌(日本では広軌と称した)を用いた高規格路線であり、保守的な日本内地の鉄道省とは一線を画した先進的な試みを早くから行っていた。
1934年(昭和9年)、満鉄は自社設計によって当時の欧米の潮流に互した流線形蒸気機関車「パシナ形」を開発、これに新開発の流線形客車編成を組み合わせ、大連 - 新京(現・長春)間701 kmに特急「あじあ」号を運転開始した。この列車は最高速度120 km/h以上を誇り、最高95 km/hに留まる鉄道省の列車をはるかに凌駕した。所要8時間30分、表定速度は82 km/hに達した。
とはいえ、当時の欧米の鉄道はさらに上を行っていた。例えばイギリスの ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)がロンドン - エディンバラ間に運転していた特急列車「フライング・スコッツマン」は、蒸気機関車牽引で最高速度160 km/h以上での営業運転を行っており、ドイツ国鉄では気動車列車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が150 km/h 以上の高速で営業運転していた。さらにアメリカの私鉄各社には、定期運転列車を牽引して、最高速度は優に180 km/hに達する蒸気機関車さえ存在していたのである。
「あじあ」号は全客車冷暖房完備など世界の最先端を行っていた部分もあったが、120 km/h運転そのものは、当時の欧米の主要幹線での標準的な水準に達したものでしかなかった。
この技術が、日本本土の鉄道に直接生かされることはなかった。しかし満鉄関係者には鉄道技術者の島安次郎がおり、その長男の島秀雄と共に後述する「弾丸列車計画」を推し進めることになる。
なお、前述した日本電気鉄道のように、民間による大規模な都市間電車は実現しなかったが、中近距離の都市間電車に関しては、新京阪鉄道[注 4]や阪神急行電鉄、参宮急行電鉄、阪和電気鉄道のように、アメリカのインターアーバンの技術を取り入れるなどして実現させた所もあった。これら路線の多くは、既存の鉄道線と競合する形で敷設されたものとなっており、「(既存の並行線よりも)高規格な路線において、高速運転を行うこと」がその建設目的となっていた。「新しい高規格線を敷く」という意味では、新幹線に通じる所もある。
その中でも、参宮急行電鉄が転じた関西急行鉄道は途中に伊勢中川駅での乗り換えこそあるものの、大阪と名古屋という中距離の2大都市間(当時の営業キロで189.5 km)を電車で結ぶことに成功しており、また阪和電気鉄道は「あじあ」号の水準に匹敵する、表定速度81.6 km/hの「超特急」を狭軌路線で運転していた。
これらの私鉄で用いられた電車はハイレベルな仕様の車両が多く(新京阪P-6形、参急2200系、阪和モヨ100形など)、後述する国鉄における動力分散方式の開発にも、いくらか影響を与えている。
1930年代に入ると、満州事変や日中戦争の激化などにより、日本から中国や満州国へ向かう各種物資輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大した。
このころ鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、主要幹線の輸送力強化についての検討が行われた。ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」であった。
これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435 mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200 km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 下関間を9時間で結ぶことを計画したものであった。この計画は翌1940年(昭和15年)9月に承認され、建設工事が始められることになった。
すでにこの時点で、新しい幹線を敷設するということから「新幹線」や「広軌新線」という呼称を内部関係者は用いていた。「新幹線」の語はここが起源であるとされている。
また将来的には対馬海峡に海底トンネルを建設して、統治下である朝鮮半島へ直通、釜山から奉天(現:瀋陽)を通り満州国の首都新京(現:長春)、さらには北京・昭南(現:シンガポール)に至る、という構想も一部では描かれていた。
当時の鉄道では、日本においてもまだ機関車が客車を牽引する方式が一般的であったうえ、完全電化したものの、発電所が敵国からの攻撃を受けた場合の対処について軍からクレームを受けたために、「弾丸列車」も電気機関車と蒸気機関車を併用する方式で計画された。
1941年12月の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、日本坂トンネルや新丹那トンネルが、1942年には東山トンネルの工事が着工したが、最終的には戦況の悪化で中断した(その後再開され新幹線に利用)。しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられた。特に、土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で相当な区間において終わっていたことは、新幹線建設をスムーズにした。
この弾丸列車計画の技師たちが居住した地として、静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が、東海道新幹線の開業前から存在した。
太平洋戦争終結後数年間、鉄道をも含めて混乱の極みにあった日本も、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争以降本格的に復興し、鉄道の都市間輸送需要も急激に伸張していった。
旧日本軍の研究部門や軍需企業に所属し、戦後その職を失ったり技術を持て余していた優秀な人材を、昭和20年代の国鉄が多数獲得したことは見逃せない事実である。高速走行中の車両の振動や、空力特性の研究は、旧軍出身技術者の存在によって大きく進展した。
1955年(昭和30年)に国鉄総裁に就任した十河信二は、国鉄出身の卓越した技術者であるが一時民間にあった島秀雄を再度招聘し、国鉄技師長に就任させた。彼らを中心とする人々が、その後新幹線計画を推進することになる。
地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、機関車が客車を牽引する「動力集中方式」よりも、電車・気動車のように編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方式」の方が適している。カーブや勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、また線路への負担が小さいため、脆弱な地盤に敷かれた線路でも高速を出せるからである。当時は蒸気機関車主流の時代であり、また国際的に見ても主流であることから、国鉄部内でも動力集中式に固執する者が多かったが、島秀雄は例外的に戦前から動力分散方式の特性を理解し、研究していた。
島は1951年(昭和26年)に事情によって国鉄を離れていたが、彼の指揮の下で1950年(昭和25年)に開発された東海道線普通列車用の80系電車は、短距離向けと見られていた電車が、長距離運転にも優れた特性を発揮するという事実を実証し、その後国鉄の在来線に電車・気動車の普及を進める原動力となった。島の復帰以降、国鉄の動力分散化の流れはさらに加速する。
日本では1953年(昭和28年)以降、欧米からの新技術移入や国内メーカーの技術開発に伴い、電車の高性能化の動きが始まった。
この過程で、振動を抑制し、乗り心地改善と高速運転に資する「カルダン駆動方式」と高速対応の新型台車、床面シャーシだけでなく側板や天井にも応力を分散させた「全金属製軽量車体」、全車両にモーターを搭載して加速力を高める「全電動車方式」、反応速度が速い上に取り扱いが容易な「電磁直通ブレーキ機構」、制御装置1台を2両の電動車で共用して軽量化やコストダウンを実現する「1C8M方式(MM'ユニット方式)」など、それ以前の電車とは一線を画する重要な革新的技術が、1953年(昭和28年)からわずか数年の間に実用化された。
この結果、高速性能・加減速性能に優れ、しかも居住性の良い高性能電車が、1954年(昭和29年)以降大手私鉄を中心に続々と出現して、大きな技術的成功を収めた。国鉄もこの潮流に乗って高性能電車の開発に取り組み、1957年(昭和32年)に新型通勤電車モハ90系(後の101系)を完成させる。
同年に小田急電鉄が完成させた低重心・連接構造の流線型特急電車3000形「SE車」は、鉄道技術研究所の技術指導を受けて設計された[29]車両で、最高速度145 km/hを目指した野心作であった。しかし、曲線の多い小田急の路線ではその高速性能は十分に発揮できなかった[30]ため、小田急から国鉄に対して、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として[30]、軌道条件の優れている国鉄の路線上での走行試験について申し入れがあった[31]。
国鉄はこの申し入れに対して快諾[32]、小田急からSE車を借り入れ、1957年(昭和32年)9月に東海道本線で速度試験を行った。結果SE車は計画通りの145 km/hに到達し[33]、当時の狭軌鉄道における世界速度記録を達成した。続いて国鉄はモハ90系通勤電車をギア比変更などで高速化改造、空気抵抗の面で不利な形態ながら135 km/hの好記録を達成した。
これらの実績を踏まえて、1958年(昭和33年)にはモハ90系の技術を応用し、東海道本線特急「こだま号」用に国鉄初の特急形電車モハ20系(後の151系)が開発された。流線型の軽量・低重心な車体は冷暖房完備で、空気バネ台車も装備し、スピードと快適な乗り心地を両立させて、動力集中方式の客車列車を完全に凌駕した。翌1959年7月には、東海道本線での速度試験で通常編成(4M4Tの8両編成)からデッドウェイトとなる付随車2両を抜いた6両編成で最高速度163 km/hに達し、小田急SE車の速度記録を更新した。
これらの電車における顕著な成績は、動力分散方式の資質を実証し、ひいては新幹線車両に電車を用いることへの強力な裏付けとなった。
1955年(昭和30年)から国鉄は交流電化方式の実用化に独自に取り組む。同年国鉄代表団はフランスパリで、狭軌用交流機関車を買いつける算段をするが、日本側は技術研究のための5両程度の買い付け意欲しかみせず、交渉は決裂[34]。日本では同年中に独自開発による商用周波数の単相交流(20 kV 50 Hz)を使用する電気機関車2両(ED44 1(日立製作所製)・ED45 1(三菱電機・新三菱重工業製))の試作に成功する。
これらの試作車による研究成果を受けて、国鉄は1957年の北陸本線を皮切りに、地方線区での交流電化を開始した。これ自体は従来の直流電化に比べ、変電所間隔を長くできることから地上設備コストが低いと考えられたことによるものであったが、後に新幹線の電化システムに応用されることになる。超高速の電気鉄道においては大量の電力消費が生じ、これに伴って架線から効率よく集電するには、従来から用いられて来た1,500 Vの直流電源より、大電力を長距離送電できる高圧交流電源を用いる方が適していたのである(日本の鉄道の交流電化方式は在来線20 kV、新幹線25 kVで、電圧だけでも直流電化路線の10倍以上のレベルである)。
これに先立ち、戦後の復興と共に鉄道および道路輸送の需要が増大すると、当時の日本における最重要幹線であった東海道本線の貨客輸送能力は、ほぼ限界に達していた。1956年に東海道本線の全線電化が完成するが、需要の増加には焼け石に水であった。
1957年(昭和32年)、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至とし、現在線以外の線路増設が必要であると答申した。実際の手法としてさまざまな案が出されたが、基本的に以下の3案のいずれかが選択されることになった。
東海道の線増計画は、従来の常道であれば複々線案が採られたところであった。しかし、十河ら国鉄幹部は将来の発展性を視野に入れ、あえて困難の多い広軌新線建設を決定したのである。それは戦前の弾丸列車計画を、戦後の技術革新の下で、改めて実現しようとする超高速列車計画であった。
同年5月30日には鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の篠原武司所長らが、鉄道技術研究所創立50周年記念講演「東京 - 大阪間3時間への可能性」で、広軌新線ならば東京 - 大阪間の3時間運転は技術的に可能であるという報告を行った。十河はその話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて技術研究所員に詳細を話させたという。
当時欧米では、将来の大量輸送手段として航空機と高速道路網による高速輸送が有望視され、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れのものだという見解が広まっていた。日本でもこれを範としようとする向きが一般的であり、在来線とは別規格の高速新線を建設するという計画は、国鉄内部でさえも疑問視する者が多かった。
鉄道ファンでもある作家の阿川弘之ですら、戦艦大和(大和型戦艦)・万里の長城・ピラミッドが「世界三大馬鹿」であり、この時期に莫大な投資をして新幹線を造れば「第2の戦艦大和」となって世界の物笑いの種になると批判した[35](後に阿川は新幹線が世界の鉄道斜陽論を覆すに至るまでの成功を収めたのを見て、十河の後を継いで国鉄総裁を務めた石田禮助との対談において、自らの不明を悔やむ発言をしている)。
そのような厳しい状況下で、十河と島は東海道に新たな大規模高速輸送用の鉄道路線(新幹線)を実現すべく政治的活動(十河が担当)と、技術的プロジェクト(島らが担当)を続けた。
技術的裏付けの下、1958年(昭和33年)に建設計画が承認され、翌1959年(昭和34年)4月20日に起工式が行われた。総工費は当初予定から修正され、3800億円にまで膨らんだ。元々十河などが国会内での承認を得るために安く見積もっていたこと、地価高騰のあおり、さらには新幹線建設に集中するために地方路線建設の陳情を蹴り国会議員の不興を買っていたこともあって、後には国会で責任問題に発展した。新幹線開業前に責任を取る形で十河は国鉄総裁を退任し、島も十河に殉じて国鉄を退職する。
1961年(昭和36年)5月1日に国鉄はこのプロジェクトに対し、世界銀行から8000万ドル(当時は1ドル=360円の固定相場制)の融資を受けた(この融資は1981年(昭和56年)に返済が完了した)。この融資を受けたことで、新幹線プロジェクトは日本の国家的プロジェクトとなり、国内事情によって中断することは許されなくなった。
その建設に関しては前述の通り、戦前の「弾丸列車計画」の際に開削されたトンネルや、買収された用地の多くが活用された。5年という短期間で完成したのは、この時の用地買収および工事があったからだともいわれている。また大阪府・京都府内では、完成した新幹線の線路を高架工事中の仮線として用いて、暫定的に阪急京都本線の電車を走らせていたこともあった(→新幹線の線路を先に走った阪急電車)。
1962年(昭和37年)には神奈川県綾瀬付近 - 小田原付近の区間がモデル線として先行整備され、小田原市鴨宮(かものみや)に鴨宮基地とそれを統括するモデル線管理区が置かれた。小田原 - 綾瀬間が試験路線に選ばれた理由は以下の通りである。
ここで2編成の試作電車「1000形」を用いて車両と設備のテストを繰り返し、問題点をあぶり出しては改良を重ねていった。1963年(昭和38年)3月30日の速度向上試験では、1000形B編成が256 km/hの国内速度記録を達成している。モデル線での研究は、初代量産形新幹線電車となる0系や、線路設備の開発に生かされることになった。また、ここに中央鉄道学園小田原分所を設けて、新幹線のための乗務員と保線要員の養成も同時に行った。
しかし、このモデル線にはある欠点があった。相模湾に近く、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データは十分に得られなかったのである。東海道新幹線の名古屋 - 新大阪間経路は、当初計画した鈴鹿山脈経由ルートが費用や技術・工期の制約から断念され、東海道本線同様に関ヶ原を経由するルートに変更されていた。関ヶ原周辺は谷間で標高も高く、さらに日本海側気候の影響で冬期には激しい降雪のある地域でもある。このような区間を冬期に高速列車で通過する状況の研究が、開業前には十分に行えなかった。このことは、1964年(昭和39年)の開業後初めての冬期に関ヶ原での着雪による車両故障を頻発させる原因となった。
このモデル線区は、設備が無駄にならないよう、建設中の路線の一部を先行完成させて利用する手法が採られ、東海道新幹線開業後は新横浜 - 小田原間の一部に組み込まれている。この手法は後続の東北新幹線の小山実験線や、リニア山梨実験線にも踏襲されている。小山実験線には実際に駅施設も設けられ、後に小山駅となった。現在、鴨宮基地のあった場所は保線車輌の基地となっており、その一角には新幹線モデル線を示すモニュメントが設置されている。2009年(平成21年)5月には市民の手によって、0系新幹線の前頭部をモチーフとした「新幹線発祥の地」のモニュメントが建てられた。
またテストに使われた試作電車は、東海道新幹線開業後に改造を受けた。A編成は救援車941形に、B編成は電気軌道総合試験車922-0形となり、それぞれ役立てられることになる。941形はまったく活躍することなく廃車となったが、922-0はその後0系を元とした「ドクターイエロー」が登場するまで生き永らえた。
山陽新幹線開通前に「夜行新幹線」も計画され、山陽新幹線技術基準調査委員会報告(1966年)では、東京から博多の間を一晩に計24本で運行した場合、片道平均5,000から7,000人の需要があると見込んでいた。新幹線の夜間運行は片側1路線を運用し、もう片側の路線は保守点検して運行するという計画だった。また当時は四国新幹線や中国横断新幹線の計画も含め衝突を避けて夜間運行を実現させるために姫路駅の新幹線13番ホームを待避線に、待避駅として西明石駅・相生駅が建設された[36]。しかし名古屋新幹線訴訟などの新幹線の騒音問題が浮き彫りになったことや国鉄分割民営化で夜行新幹線の計画は実現しなかった。
大阪産業大学工学部の波床正敏・井上喜裕らのように、新幹線の夜行運行の適用可能性を環境負荷と発着時間帯の観点から検討し、発着時間帯の設定自由度が従来の夜行列車より高く有望であるとする考えもある[37]。
1964年(昭和39年)10月1日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業した。併せて専用の0系が開発され、営業に投入された(→1964年10月1日国鉄ダイヤ改正も参照)。なお、開通に先立つ同年4月22日からアメリカのニューヨーク市で開催されたニューヨーク万国博覧会の日本館に実物大モックアップが展示され、日本の技術力を誇示した。
10月1日の東京発の一番列車(ひかり1号、運転士・山本幸一、伊月正司の2名)は定員987名のところ乗客は730名ほどであり満席ではなかった。
開業当初の営業最高速度は200km/h(東京 - 新大阪間「ひかり」4時間、「こだま」5時間)。路盤の安定を待って翌年に210km/h運転(同「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間)を開始した(→1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正も参照)。
日本の二大都市である東京 - 大阪間は、1958年(昭和33年)から在来線の特急で日帰り可能になっていたものの、滞在時間がわずか2時間あまりしか取れなかった。しかし新幹線の開通により、日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、社会構造に著しい変化を及ぼした。ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起し、東海道新幹線においては当初の12両編成が、1970年(昭和45年)の大阪万博の開幕を機に16両編成まで拡大され、高速大量輸送機関としての確固たる地位を確立した。
その一方で、新幹線の建設や特急・急行列車の増発、さらには都市部における通勤輸送増強(通勤五方面作戦など)などの設備投資に追われたことから、新幹線の開業した1964年(昭和39年)度から国鉄収支は赤字に転落し、以後それは拡大する一方となり、結果的に新幹線建設は国鉄破綻の1つの原因となったと言われる。これに対し、JR東海の葛西敬之会長は著書の中で「東海道新幹線はあくまで内部留保された資金と借金で建設資金をまかない、それらを運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りだ」と指摘している。いずれにせよ、以後の国鉄において、新幹線は重要な収入源ともなっていく。
その後、東海道新幹線に続いて、同じように需要の増加していた山陽本線の抜本的輸送力改善と高速化を目的として、1967年(昭和42年)に東海道新幹線を延伸する形で山陽新幹線が着工され、1972年(昭和47年)3月15日に岡山まで、1975年(昭和50年)3月10日には博多まで開業した(→1972年3月15日国鉄ダイヤ改正・1975年3月10日国鉄ダイヤ改正も参照)。「ひかりは西へ」がそのキャッチコピーであった。
さらに東北方面への延伸も計画された。1971年(昭和46年)には東北新幹線と上越新幹線が着工され、キャッチコピーには「ひかりは北へ」が使用された(実際の開業にあたっては、「やまびこ」「あおば」「とき」「あさひ」等、東北・上越在来線特急のかつての名称を継承している)。1974年(昭和49年)には建設中の成田空港へのアクセス路線として成田新幹線も工事に入った。折しも田中角栄内閣総理大臣によって、国土開発を促進する「日本列島改造論」が提唱され、整備は順調に進むかに見えた。
だが、実際には反対運動による用地買収の難航やトンネル工事での異常出水などがあり、前者2つの新幹線は予定より工事が5年も遅れ、成田新幹線に至っては工事中止となってしまった(ただし、後にJR東日本と京成電鉄の成田空港乗り入れの際にこの新幹線建設で作られた設備が生かされることになる)。また、名古屋新幹線訴訟など、新幹線沿線での騒音・振動による公害問題がこの頃深刻化した。さらに国鉄財政の悪化に伴う運賃・料金値上げの繰り返し、労働紛争によるストライキの頻発化などから、既存新幹線の乗客が減少傾向に陥った。そして経営問題と労働紛争の影響から技術革新も見られなくなり、新幹線の発展・発達は一時停滞した。
東北新幹線と上越新幹線は1982年(昭和57年)に大宮発着という暫定的な形で開業し(→1982年11月15日国鉄ダイヤ改正・新幹線リレー号も参照)、1985年(昭和60年)には用地買収の関係で遅れていた都心(上野)乗り入れを果たした(→1985年3月14日国鉄ダイヤ改正も参照)。これにより東北・上越地方における鉄道シェアは大幅に拡大した。だが、それら新幹線の建設費負担も重なって、国鉄財政はついに破局的状態となり、中曽根内閣の下で断行された1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に至るのである。
国鉄の分割・民営化後、東北・上越新幹線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海、山陽新幹線はJR西日本の運営とされたが、当初設備は第3種鉄道事業者の「新幹線保有機構」が保有し、各会社が第2種鉄道事業者として路線を借り受けて運営する形とした。新幹線の保守費用は各社が負担し、新幹線保有機構は設備の貸し代だけを受け取るもので、利益の出る新幹線事業によって赤字となる他地域JR会社への補填を行うのが目的であった。
しかし、前記JR3社の経営が安定化して、東京証券取引所などへの上場が視野に入ると、輸送量に応じて貸し賃が変わるこの制度のままでは会社の営業努力が反映されないことや、各社の資産・債務の額が確定できないことなどが問題視され、結局1991年(平成3年)に制度を変更し、各鉄道会社が新幹線資産を新幹線保有機構を改編した鉄道整備基金から60年賦で買い取ることにした。
分割・民営化後、技術・営業面で停滞していた新幹線も新型車両の登場、新形態など積極的な流れが見られるようになった。
後者の代表として、JR東日本は新幹線規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改良し、専用の車両を新造したうえで、新幹線と在来線が直通運転できるようにしたミニ新幹線を整備した。
1992年(平成4年)に400系を新造し、山形新幹線として奥羽本線の福島駅 - 山形駅が、1997年(平成9年)にE3系を新造し、秋田新幹線として田沢湖線・奥羽本線の盛岡駅 - 秋田駅が、1999年(平成11年)にE3系1000番台を増備し、山形新幹線の延伸として奥羽本線の山形駅 - 新庄駅が、それぞれ順次営業運転を開始した。
JR西日本は山陽新幹線博多総合車両所への車庫線を旅客線化し、1990年(平成2年)に博多南線として博多駅 - 博多南駅を、こだま号に使用される車両を用いる在来線特急という形態で営業運転を開始した。
また最高速度は210 km/hの時代が長く続いたが、国鉄末期頃(→1985年3月14日国鉄ダイヤ改正・1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照)から次第に向上されるようになり、21世紀初頭では東海道新幹線で270 km/h、山陽新幹線区間で300 km/h、東北新幹線区間で320 km/hに至っている。また時速アップ以外にも、停車駅での停車時間の短縮や、停車駅間の速度をできるだけ高速度で維持するなどして、わずかな分単位ながら、主要駅間の時間短縮を図る工夫もされている。
国鉄末期に建設が凍結されていた整備新幹線は工事が再開され、東北新幹線(2002年に八戸まで、2010年に新青森まで延伸)と九州新幹線鹿児島ルート(2004年に鹿児島中央 - 新八代間、2011年に新八代 - 博多間が開業)は既に全線開業、北陸新幹線(1997年に「長野新幹線」として長野まで開業、2015年に金沢まで延伸)と北海道新幹線(2016年に新函館北斗まで開業)が部分開業し、残った区間も工事が次第に進みつつある。
また20世紀末以降、新幹線による通勤・通学が増加しつつある(「新幹線通勤」も参照)。これは、いわゆるバブル以降の大都市における地価の高騰で、新幹線で通勤・通学が可能な郊外(主に東京への通勤・通学を目的に栃木県、群馬県、静岡県東部が多い)の住宅に住む人が増えたためである。1983年(昭和58年)2月の新幹線定期乗車券販売開始をきっかけに、新幹線通勤定期券を支給する企業の増加、さらに企業が支給する通勤定期券代の所得税非課税限度額の引き上げがそれに輪をかけた。朝・夕の新幹線においては通勤客で混雑が激しくなり、通勤客向けのダイヤも設定されるようになった。これに対応してJR東日本ではMaxという多座席型の2階建車両を投入し、1列車あたりの定員を大幅に増やした。首都圏以外でも、山陽新幹線の小倉 - 博多間などで通勤・通学に新幹線を利用している者は多い。
1964年(昭和39年)10月1日に最初の新幹線である東海道新幹線が開業して以来、事業者側の責任事故として確定した事故は、1995年(平成7年)に駆け込み乗車の乗客の手をドアに挟んで引きずり死亡させた三島駅乗客転落事故(旅客が死亡)と、2015年(平成27年)に発生した山陽新幹線部品脱落事故(旅客が負傷)の計2件である。
自殺行為(車両への投身や、架線に接触し感電など)や線路内立ち入り等による死亡例は多数発生しているものの、鉄道事業者側の責任事故ではなく、またこれらは新幹線システムそのものの根本的欠陥に起因する事故ではないため、新幹線の安全性に関しては非常に高いものと捉えられている。この事実は新幹線の安全神話などと称されていた[38]。 このように、新幹線車両自体の脱線、転覆や衝突による旅客死亡事故は未だ発生していないが、重大な事故に至る一歩手前の事態は過去に何度か発生している。
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年6月) |
以下の各事例は、新幹線の安全を脅かす事故例と考えられ、重大視されてきた。
特に1990年代末期から多発したトンネルのコンクリート剥落事故に対しては、JR各社には設備保全を徹底させる対策が求められている。これらの事故は、山陽新幹線が建設された昭和40年代以降、高度成長期の建設ブームのもと、促成による手抜き施工が新幹線工事でも随所で行われていたことを露呈させたものといえる[要出典]。
また在来線と直通運転を行うミニ新幹線(山形新幹線・秋田新幹線)では踏切もあるため、踏切事故がしばしば発生している。
地震に伴う障害は、高速鉄道の安全性にとって脅威となりうる。このため、地震が多発する日本において運営される新幹線にとっても課題となっている。1990年代以降、日本国内における大きな地震災害の多発により、高速鉄道の地震に対する脆弱性が指摘されるようになった。
1965年(昭和40年)4月20日、静岡県の大井川河口を震源とするマグニチュード6.1の地震が発生し、開業後約半年経過していた東海道新幹線にも静岡市周辺の盛り土が崩れる被害が生じた。当時はまだ運転本数が1時間に片道2本しかなく、発生直後にすべての列車の運行が停止されたこともあり、走行中の車両や旅客には大きな被害は発生しなかった。しかし、当時の運行責任者であった斎藤雅男(元国鉄新幹線支社運転車両部長-新幹線支社次長、鉄道工学の専門家)によると、「当時は雨の影響で地盤が弱くなっており、大きく陥没していたところもあった。仮に崩れた路盤上に列車が来ていたら間違いなく脱線して大惨事になっていた」という。なお、山陽新幹線の一部区間と東北新幹線以後の新幹線にはスラブ軌道が採用されている[41]。
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、被災地域において山陽新幹線の高架橋が破損・一部落下し、新大阪 - 姫路間が81日間にわたり不通となった。地震発生は午前5時46分で、始発列車は新大阪駅に停車していたがこの日の営業運転が始まる前であったため、落下した高架橋に列車が突っ込むなどの最悪の事態は免れた。これを機に高架橋の補強などの耐震対策が進められた。また比較的被害の少なかった京都 - 新大阪間、姫路 - 岡山間は1週間程度で復旧した。
さらに、2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震においては、上越新幹線が甚大な被害を受けた。高架やトンネルなどの構造物に損傷が発生したほか、上越新幹線列車の「とき325号」(10両編成、200系=K25編成)が長岡駅の手前付近を約200 km/hで走行中に脱線した。これはまた新幹線史上初の営業運転中、しかも高速走行中の脱線事故となった。この脱線の衝撃で、レールの道床の締定が多数外れ、一部のレールはねじ曲がるなどの大きな被害を受けた。
通常、列車がこの規模の地震に震源地付近で直撃された場合、たとえ停車していたとしても脱線は免れ得ないと考えられる。「とき325号」の事例では約200 km/hで脱線したとはいえ、奇跡的に、死者・重傷者などは生じなかった。これは、編成全体の横転などには至らなかったこと、および、数分の差で対向列車との衝突も免れるという幸運も重なったことによる。なお、横転が生じなかった理由には、事故現場が積雪の多い地帯であるため、レール脇に雪を融かして流すための溝があり、そこに脱線後の車体の一部がはまり込んだことも関係していたとされる。
なお、地震に対する脅威に対し、上越新幹線にも地震感知システム「ユレダス」をカスタマイズした「コンパクトユレダス」が採用されている。実際、この「とき325号」のケースにおいても初期微動(P波)の検知後にブレーキが動作した。しかし、このケースでは、「とき325号」の通過地点からみて直下型の地震であったため、「とき325号」の停止前に地震が到達したことにより被害が生じてしまった。
この事故により、新幹線を運営するJR各社は、新幹線における地震対策の重要性を強く認識することとなった。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、東北新幹線が甚大な被害を受けた。運転中だった列車はすべて強制停止したが、大宮駅 - いわて沼宮内駅間の広範囲にわたって、高架橋の損傷や架線柱の倒壊などが発生した。仙台駅では試運転中だったE2系の一部車両が脱線したほか、ホームの天井板が剥がれ落ちるなど前記の中越地震以上の被害を受け、全線復旧まで約1か月半を要した。
2016年4月14日に発生した熊本地震では、九州新幹線が被害を受けた。下りの800系6両編成の回送列車が熊本駅から熊本総合車両所へ向かう途中に脱線したほか、防音壁の落下や高架橋の亀裂などが見つかったが、13日後の4月27日午後には全線で運転を再開した。
中国工程院の王夢恕は中国メディアの南方都市報による取材記事で、日本の新幹線は軌道に関する技術が低く、レールの安定性が中国の高速鉄道技術よりも劣ると主張した。しかし王はその主張の根拠となるデータや「レールの安定性」という言葉の具体的な意味については何ら言及しなかった[42]。
新幹線では、航空機や船舶と異なり、通常の運行では乗客名簿などは整備されない。万一、転覆事故などで多数の死傷者が生じた時には、死傷者の身元特定に支障をきたすのではないか、との指摘もある。もしそうなった場合、家族への連絡や事故の補償などで大きな問題となることが予想されるが、新幹線を運営する各鉄道会社はこの課題について踏み込んだ対策を採るまでには至っていない。
20世紀末から世界的に増加しているテロリズムに対しても新幹線は脆弱ではないかとの指摘もされている。現状では航空機のような搭乗時の手荷物検査がなく、その気になれば車内やプラットホームに、可燃物や爆発物、刃物を容易に持ち込むことができるのも事実[注 5]である。また高架橋などの軌道設備には周囲から容易に接近できる箇所が多く、この面でもたやすくテロの対象となりうる。
なお、N700系では全てのドア上部と乗務員室出入口に、E5系・H5系やE6系、E7系・W7系ではそれらに加えてグランクラスを除く客室内にも監視カメラを取り付けている。東海道新幹線車内での放火事件以降、JR東海はN700系でも客室内とデッキ通路部にも増設することとし[43]、2016年2月23日より増設が完了した1編成が運行を開始した(1編成あたりのカメラは60台から105台に増加)[44]。なお、客室内の映像については、N700系は常時録画だが、その他のE5系・H5系などはプライバシー保護の観点から非常ボタンが押されてから録画を開始する方式としているが、JR東日本ではこれらの車両についても今後は同様に常時録画とする方針である[44]。
JR東日本の各新幹線では、テロ対策のため、車内のゴミ箱を一切利用停止にしていた時期があったが、乗客からの不便という声が高まり、現在は利用を再開している。ただし要人来日時(特に主要国首脳会議開催時やアメリカ合衆国大統領来日時)は、利用を停止する場合がある。また、JR東海ではアメリカ同時多発テロ事件以降、系列の警備会社と連携し、沿線を24時間体制で巡察しているほか、列車によっては警備員を警乗させている。
2008年(平成20年)7月28日に東海道・山陽新幹線では、2008年12月より全編成において自動体外式除細動器 (AED) を配備すると発表した[45]。
世界初の210 km/h運転を達成した新幹線の成功は、欧米各国に影響を及ぼした。鉄道先進国を自負していたフランスは、1967年5月28日よりパリ - トゥールーズ間の列車「ル・キャピトール」を欧州において初めて[注 6]一部区間で200 km/hで運転し、その後も複数の列車を200 km/hで運行していた。新幹線の開業後、1981年に本格的な超高速列車TGVを開発し、営業最高速度260 km/hというスピード世界一を達成し、新幹線の記録を凌駕した。
その他、ドイツ (ICE) やイタリア(ディレッティシマ)でも高速列車が計画され、実現に移された。イタリアのディレッティシマは欧州初の高速新線であり、1970年に工事が始まり、1978年に部分開業を迎え、1983年に250 km/h運転を開始したものの、その後の整備で仏独に遅れを取り、全線が開業したのは1992年である。
スペインは、高速新線の導入を検討していたが、TGV方式の高速列車を採用、その他にもフランスからTGVを導入する国が増えている。
ロシアの高速列車ソコルは1997年、ドイツ鉄道の技術支援を受け、モスクワ - サンクトペテルブルク間654 kmを営業時の最高速度250 km/hで結んだことにより、それまで4時間20分掛かっていたものが、2時間30分に短縮された。
なお、すでに標準軌の鉄道網が整備されているこれらの国では、駅周辺は従来の路線をそのまま使用し、郊外区間では諸条件によって高速新線建設と在来線改良を使い分けることが多く、システム的には全線を新線として建設する新幹線とは別物といえる。
走行試験を除く営業運転速度は、2013年3月現在、新幹線E5系やフランスTGVの320 km/hが世界最高である。日本の新幹線500系およびN700系 (300 km/h)、ドイツのICE (300 km/h) 等がそれに続く。大韓民国(韓国)では2004年にフランスのTGV方式の韓国高速鉄道 (KTX) が300 km/hで開業し、台湾では2007年に日本の新幹線方式(一部仏独の技術を導入)の台湾高速鉄道が300 km/hで開業した。なお、一時、ドイツのICE3の技術を導入した中国京津都市間鉄道および武広旅客専用線で350 km/h運転を行っていたが、2013年3月時点では300 km/hで運行している。
TGVは360 km/hへの速度向上を計画している。2007年後半からフランスのTGV方式を採用したスペインのAVEは、マドリード - バルセロナ間630 kmの新線で、ドイツのICEの技術に使われているシーメンス製の Velaro E という列車を使い350 km/hで運転する計画がある。それが実現すれば、マドリード - バルセロナ間は2時間30分に短縮される。 さらにロシアやベトナムでも新幹線をモデルにした最高速度350 km/hの高速鉄道建設が計画されている。
浮上式鉄道を含めた2015年4月時点における世界最速の旅客営業鉄道路線は、2003年にドイツの技術によって開業した中国・上海浦東国際空港へのアクセス用に建設された上海トランスラピッドで、最高速度は430 km/hである。 走行試験も含めた鉄道における最高速度の世界一は、日本のL0系が2015年4月に山梨リニア実験線で記録した603 km/h[46]。浮上式鉄道を除くとフランスTGVの高速試験車V150編成が記録した574.8 km/hである(日本の非浮上式鉄道の最高記録はJR東海の300Xによって達成された443 km/hで世界第3位)。
東海道新幹線は建設時期が古く、カーブなどの線路状況が200 km/h台の設計になっている。より新しい山陽新幹線・東北新幹線などもフランスやドイツなどと比較すると山岳区間が多く、路線の起伏やカーブの設計などにおいて高速化を妨げる点が多い。特に後者は上越新幹線共々寒冷地の耐寒・耐雪装備が不可欠であり、重量的に不利である。また沿線に住宅地が多いため、騒音への対策も必要となるなど、300 km/h以上の運転には解決すべき課題が多い。
しかし、JR東海・JR西日本では2007年より山陽新幹線で500系と同じ最高速度300 km/h、東海道新幹線でも従来の車両では255 km/hまで減速する必要のあった半径2,500 mのカーブを、車体傾斜装置を搭載することで270 km/hで通過できるN700系の導入を開始した。また、JR東日本は2004年から360 km/h走行を前提とした試験車両(E954・E955形)を開発し、2009年からはE954形をベースとして320 km/hでの走行を前提にしたE5系を製造、新青森延伸後の2011年3月5日に300 km/hで営業を開始し、2013年3月16日より320 km/hでの営業運転を開始した。
JR東海は東海道新幹線の一部区間で、営業時の最高速度を270 km/hから330 km/hに引き上げることを検討している。330 km/h走行は京都 - 米原間の直線が長い一部区間を対象に「のぞみ」の始発や終発に限った運行を想定。最先端の車両であるN700系を使い、前方に待機列車がなく、性能を存分に発揮できる時間帯に導入される。
各路線での記録である。
台湾の南港 - 高雄間のうち、台北 - 左営の約340 kmで運行中の高速鉄道路線(台湾高速鉄道)は、独仏連合との熾烈な受注競争の末、日本連合が最終的に逆転、受注に成功した。この高速鉄道は新幹線のシステムを導入して建設されており、車両には700系をベースとした700T型が用いられている。日本が受注した背景には、技術や安全性もさることながら、台湾は歴史的にも日本に対し親近感を持っていること、地理的に日本と類似した条件にあること、地震に備えるシステムが構築されていることなどが挙げられるが、最終的には日本側が提示した資金面での優遇措置を加えたことが契約締結の決め手となった。
当初は2005年10月の開業を目指して建設が進められたが、台湾高速鉄道のコンサルタント業務を欧州連合が先に受注していたため、施工方法やスケジュールの調整が難航。また建設工事の一部区間を受注していた韓国の現代建設による路盤の手抜き工事が発覚するなど、各国企業の思惑が入り乱れたため、開業時期が徐々に遅れ、結局2007年1月5日に板橋 - 左営間で仮開業し、全線は2007年3月に正式開業した。
現在、台北 - 南港間が建設中であり、左営 - 高雄間の着工は未定である。
なお、台湾高速鉄道の顧問には、日本における新幹線計画の実現に大きく貢献した島秀雄の次男である島隆が就いている。
日立製作所は、2009年からロンドン - ケント州間の高速新線「High Speed 1(HS1、旧名CTRL: Channel Tunnel Rail Link)」で運行される高速列車サービス「オリンピックジャベリン」の専用車両「クラス395」29編成計174両を受注し、2007年8月から引き渡しが始まった。車両はHSBC Rail UKが保有し、サウスイースタンが列車の運行を担当する。UIC規格路線を走る初めての日本製高速鉄道車両であり、HS1上においてTGVベースのユーロスターと混在して運行されることとなる。営業最高速度は、HS1上で140 mph (225 km/h)、在来線では70 mph (112 km/h) で、将来的には170 mph (275 km/h) を目指す。
日立はさらなる高速鉄道事業の受注を目指して、都市間高速鉄道計画における受注も目指して活動を展開し、2009年2月に、イースト・コースト本線(ロンドン - エディンバラ間、距離700 km)やグレート・ウェスタン本線(距離300 km)を走行する高速鉄道車両の製造の優先交渉権を得た。そしてキャメロン政権の歳出削減政策による一時の交渉凍結を経て、2012年7月にシーメンス、アルストム、ボンバルディアの鉄道ビッグ3との受注競争に打ち勝って、596両の高速鉄道車両の製造と2017年から27年間にわたる車両のリースと保守事業を、45億ポンド(受注時の為替レートで約5,500億円)で一括受注した。さらに2013年7月には、追加で「クラス800」270両の製造と27年間にわたる車両のリースと保守事業を12億ポンド(受注時の為替レートで約1,800億円)で一括受注した[47][48]。受注した車両は最高速度200 km/hで、5両編成(定員約300人)と9両編成(定員約600人)で運行される。これを受けて日立は8000万ポンド(96億円)を投じて英北部ダラム州のニュートン・エイクリフに車両生産工場を建設し、2016年から月産35両のペースで車両を生産する。車両のリース事業は日立の子会社などが出資する特別目的会社アジリティトレインズによって行われる。
中華人民共和国は京滬高速鉄道など8路線、計7,000 kmの旅客専用線(最高速度350 km/h)のほか、中国全土に高速鉄道網の建設(最高速度200 - 350 km/h)を進めているが、国産高速車両「中華之星」の開発で多くのトラブルに見舞われたこともあって、日本の新幹線の技術導入と同時にフランス・ドイツ・カナダなどからも技術導入を図っている。
2007年には、主要都市間の在来線高速化 (200 - 250 km/h) に向け、JR東日本のE2系(川崎重工業製)をベースにしたCRH2型「子弾頭」を導入している。日本以外ではスウェーデンのRegina(カナダ・ボンバルディア製)をベースにしたCRH1型(CRHは“China Railway High-Speed”の略)、イタリアのペンドリーノETR600(フランス・アルストム製)をベースにしたCRH5型も導入された。
2008年の夏季オリンピックに合わせて開業した北京 - 天津間の京津都市間鉄道にはCRH2型の旅客専用線仕様も導入されたが、設計速度を超過し運転していたため、日本側からの抗議を受けて他線区に転配し、武広線では250 km/hで運転している。同年12月からは、北京 - 上海・杭州間にCRH2E型の16両編成中13両を寝台車「軟臥車(B寝台相当)」とした夜行列車が運転されている。「夜行新幹線」はかつて日本でも試作車両が作られたが、営業運転は実現していない。
2009年に開業した武漢 - 広州間の武広旅客専用線 (350 km/h) にはドイツのICE3(シーメンス製)をベースにしたCRH3型が導入されている。
どの国からも、一部は完成車で納入され、残りは現地組み立てまたは技術供与による現地生産となっている。
なおJR各社では、JR東日本が受注に積極的なのに対し、台湾への技術供与を行ったJR東海会長の葛西敬之は、法整備が不十分な中国においてトラブルが発生した場合の責任問題や、中華人民共和国側の車両購入条件である「中華人民共和国へのブラックボックスのない完全な技術供与」では技術流出の危惧から反対の意見を表明している。また、2010年4月に葛西が「中国の高速鉄道は安全性を軽視することで、限界まで速度を出している。技術も『外国企業から盗用』」と主張したことに対し、中国の何総工程師は「我々が求めている技術は、日本のような島国向けの技術とは異なる」と主張し、「安全性が保証されている中国の高速鉄道技術は既に世界をリードする地位を獲得した」などと反論した[49]。
しかし、中国鉄道部科学技術局長などを務めた周翊民は、中国紙『21世紀経済報道』に対し「世界一にこだわり、設計上の安全速度を無視し、日独が試験走行で達成していた速度に近い速度での営業を命じただけで、中国独自の技術によるものではない」と暴露し、「自分の技術でないので問題が起きても解決できない。結果の甚大さは想像もできない」と指摘した[50]。またアメリカ議会の超党派諮問機関である「米中経済安保調査委員会」は2011年10月26日、日本の新幹線技術の中国側の取得について「中国企業が外国技術を盗用した最もひどい実例」と明記し、中国の政府や国家の意思によるものだと結論付けた[51]。なお、2011年7月23日に浙江省温州市で、死者43人・負傷者190人以上を出す追突脱線事故が発生し、鉄道局長ら幹部3人が更迭されている[52]。
大韓民国の高速鉄道である「KTX」計画においては、日本の新幹線方式も入札に参加していたが、最終的にはフランスのTGV方式となった。
新幹線による貨物輸送は、最高速度や制動距離などの違いからダイヤグラム上で旅客列車と混在させることは現状では困難で、高速で走ったとしても積み替え等の時間が必要なことから時間短縮効果が旅客ほど出てこないともされる。なお、約40年の時を経て同様のコンセプトを持つ列車が在来線でJR貨物M250系電車(スーパーレールカーゴ)として登場した[72]。
「貨物新幹線」は、東海道新幹線の建設時から東京-大阪間を5時間半で結ぶ夜行貨物列車の運行構想があった[73][注 7]。1958年(昭和33年)に国鉄幹線調査会が答申し、国鉄の新幹線総局計画審議室などが検討をおこなった[74]。
計画を担当していた石井幸孝によると、国鉄では貨物取扱駅の用地買収をおこない、工事を開始した(石井によると、国鉄が使用するコンテナの規格も計画に沿って決めたという[74])が、東海道新幹線の建設費がインフレの影響で当初の計画より二倍近くに膨れ上がったため計画を断念した[74]。その後、貨物新幹線用地は東京貨物ターミナル駅や車両基地などに転用された。大阪貨物ターミナル駅の近くには未完成の高架施設が残っていたが[74]、2013年から順次撤去工事が進められている[75]。
東海道新幹線建設時の計画については、世界銀行から新幹線建設の資金を調達する際、貨物が鉄道輸送の主力となっていたアメリカの理解を得るためのダミー構想だったとの見方があるが、石井はこれを否定している[74]。また、国鉄在籍時に東海道新幹線建設に従事した長尚は、高橋団吉著『新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語』の「じつは、貨物新幹線を走らせる気は、最初からなかったのである。」という記述に対して「東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない。*東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14(2002)年に改正されるまで、この基準は生きていた。*貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。 *東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。」としている[76]。
JTBキャンブックス『幻の国鉄車両』 pp.46 - 52 には、コンテナ電車他各種車両のメトリクスや編成図が掲載されている。
山陽新幹線建設の際に「路線の有効長は、将来の貨物運行を考慮して500mとしている。」[77]また、仁杉巌は「いずれ新幹線による貨物輸送をもとめる声も高くなってくるだろうと思いますが、そのときは、おそらく新幹線が関西よりももっとさきへのびたときではないかと考えられます。つまり、現在建設中の山陽新幹線が下関までのびたときとか、博多までのびたときとかです。」[78]と記している。 なお、泉幸夫貨物局長は、博多開業前に「東海道新幹線を作りましたときに、将来は貨物もコンテナ輸送をやるという前提がありました。昭和34年に登場した5トンコンテナも、今縦積みにすれば、新幹線で使えるようにできているわけです。しかし、その後、100キロ貨車が開発され、東京 - 大阪間は、8時間で走るようになりましたから新幹線の貨物輸送は将来博多まで延びたときに、検討するという感じだったのです。その博多開業時期も大体きまってきたわけですが、貨物局を中心に勉強しまして、100キロ程度を出せるコキ車を使うと、博多から東京までといっても、そう時間に大きな差があるわけでもないことと、新幹線で5トンコンテナを運んでみたところでフリークェンシーに富んだ輸送は必ずしも期待できないこと等から、現時点では新幹線による貨物輸送は原則として考えていないのです。」[79]と述べている。
東北・上越新幹線建設の際にも貨物輸送の可能性が検討されたが、迅速性を優先されるという物資の輸送では航空貨物との競合が避けられずしかも貨物シェア自体が小さいこともあって、基本規格は東海道・山陽新幹線に準じることとして将来の可能性を残す形で見送られた[注 8][80]。
1981年から、東海道新幹線で「レールゴーサービス」という小荷物などの運送がおこなわれていた。1982年には郵政省からの提案で、1985年頃には国鉄内から、これを拡大した郵便・貨物輸送が計画され、車両の設計図面まで存在していたが、いずれも実現しなかった[81]。
2005年(平成17年)から建設が始まった北海道新幹線は、青函トンネルとその前後の区間を在来線の貨物列車と共用するため、同区間では片道あたり新幹線・貨物それぞれ2本/時しか走らせることができないと予想されている。JR北海道ではこのボトルネックを緩和する方法の一つとして、在来線の貨車をそのまま搭載する専用列車(トレイン・オン・トレイン)の研究を行っていた[82][83]が重量の問題から、E5系やH5系をベースにした貨物専用の新幹線車両の開発を検討している[84]。
新幹線の運賃は、並行在来線の営業キロを元に決められる。これは元来新幹線が並行在来線の別線増設として建設されたという歴史的経緯や、運賃計算の繁雑化を避けたことによるものである。詳しくは以下の通り。
注:「並行在来線」とは、東海道新幹線では東海道本線、山陽新幹線では東海道本線・山陽本線・鹿児島本線、東北新幹線の東京駅 - 盛岡駅間では東北本線、上越新幹線では(東北本線)・高崎線・上越線・信越本線、九州新幹線の博多駅 - 新八代駅間、川内駅 - 鹿児島中央駅間では鹿児島本線のこと。
一方、新幹線と並行在来線とを完全に同一視すると旅客にとって不利になる場合を考慮して、以下のような例外がある。
また山陽新幹線の新下関駅 - 小倉駅 - 博多駅間については、新幹線(JR西日本)と在来線(JR九州)とで管理する会社が異なることから、他の区間とは扱いが異なっている。
詳しくは、旅客営業規則第16条の2、第16条の3および第16条の4を参照。
新幹線(山形・秋田新幹線を除く)の特急料金は、乗車券や在来線の特急列車のような対キロ制ではなく、各駅の区間ごとに決められた、いわゆる三角表方式となっている。
新幹線と在来線の乗り継ぎについては、一定の条件で在来線の特急・急行料金を半額に割り引く制度がある(乗継割引)。これは、新幹線が開業する前は1本の(特急等の)列車で済んでいたものが、開業したことによって複数の(新幹線と特急等の)列車に分割されることによる合計後の特急料金等の負担増を軽減することをそもそもの目的として設けられたものである。
なお、制度上在来線である山形新幹線と秋田新幹線については、新在直通運転を行うという特殊性から、以下のような取扱いになっている。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年10月) |
長距離移動においては、従来から国内航空便との競合が続いていたが、航空会社の規制緩和による各種割引運賃の導入(早割、特割、激割など)や旅行業者とタイアップしての宿泊料金込みの格安プランの販売、および格安航空会社の国内線参入等により、競争は一層激化している。
また、航空会社によるマイレージサービスの存在も大きく影響している。これは高頻度の利用客に対し通常より多いボーナスマイルや専用ラウンジの用意、渡航先宿泊の割引など高いサービスを与えて優遇する制度であり、利用者の大きな支持を得ている。鉄道側でも、例えばエクスプレスカードの場合、会員に対しポイントシステムを開始しているが、そのサービス内容や、高頻度利用客への優遇サービスは格段の違いがある。
航空会社との対抗については、航空路線と競合する区間を中心に割引率の大きい特別企画乗車券の発売や、ビジネス客の多い東海道・山陽新幹線ではJR東海エクスプレス・カードとJ-WESTカード(エクスプレス)による「エクスプレス予約」、東北・山形・秋田・上越・北陸新幹線では「えきねっと」といった、運行会社自身の会員制インターネット予約による割引特急券の発売が行われている。とりわけ2006年(平成18年)の神戸空港や北九州空港の開港は、競合する東海道・山陽新幹線への影響が大きく、「エクスプレス予約」の山陽新幹線への拡大、300km/hの高速性能と700系車両を上回る居住性の両立を目指した次世代車両であるN700系車両の共同開発など、それまで対立の多かったJR東海とJR西日本両社は連携を強化する体制に転換しつつある。一方、航空会社も東京 - 大阪間でのみ使える予約変更自由、航空会社選択自由のシャトル便往復割引を導入して迎え撃っているほか、羽田空港の滑走路増設による発着能力増強や、横田空域の一部返還により、更なる所要時間短縮による競争力強化が見込まれている。また、京浜急行電鉄や名古屋鉄道といった空港連絡鉄道路線を持つ鉄道各社とのタイアップも行っている。
山陽新幹線においては、終点である博多駅と福岡空港がほぼ隣接している(地下鉄で2駅、5分前後)という他の地域にはない特徴もあり、福岡 - 名古屋間では新幹線と航空会社との競争が非常に激化している。福岡 - 大阪間は従来競争が激しかったが、「ひかりレールスター」の登場などにより、鉄道側が優位に立っている。さらに2011年の山陽新幹線と九州新幹線の直通運転開始により、従来は航空側が優位であった大阪 - 熊本・鹿児島間でも競合が始まっており、新幹線と航空会社との競争が激化し始めている。
また、2015年の北陸新幹線金沢延伸後は東京 - 金沢間でも新幹線と航空会社(小松空港発着)との競合が激化し始めている。
新幹線が災害や事故などで運転を見合わせた場合などには、航空路は新幹線の代替交通機関としての機能も果たしている。
東海道新幹線の開業以来、新幹線と競合した私鉄特急としては、近畿日本鉄道(近鉄)、小田急電鉄、名古屋鉄道(名鉄)の特急があった。
私鉄特急はいずれの場合も、到達時間では新幹線に太刀打ちできないので、運賃・料金の割安さ、駅の立地、車両の居住性などで対抗することになった。
国鉄時代、新幹線に並行する在来線特急と競合したものの、同一事業者よる運用として一般的には「競合」とはみなされていなかった。しかしながら、国鉄民営化後は新幹線と在来線特急が別会社によって運用されるケースが発生し、営業的にも競合関係となった。具体的な例は以下の通りである。
高速バスとの関係では、昼行の長距離においては、たとえ格安であっても新幹線の速度と定時性にはかなわないものがあるが、既出の例を含む中距離区間や、新幹線が中心とされた東京・大阪間を初めとする区間を夜行バスで寝ている間に格安で移動できるということで、1980年代ごろから人気が出ており、国鉄の名残からJR新幹線沿線をJRの子会社が運行する路線もあるが(東京-名古屋・京阪神間が中心)[注 10]、JRグループ以外の競合会社(私鉄・専業系路線バスのほか、貸切バスによる会員制ツアーバスもある)の進出も急増し、各JR新幹線と実質競合している。高速バスは、バスの特性を生かして都市の市街地(東京の新宿や渋谷、名古屋の栄、大阪の梅田や難波、広島の紙屋町、福岡の天神など)やテーマパーク(TDRやUSJなど)にきめ細かく直接乗り入れるなどしているため、新幹線の駅を結ぶ競合でなくても新幹線の客を奪っている(ただ、運賃と所要時間が違いすぎるため、直接的な新幹線との競合というよりは、利用客のニーズの違いで使い分けられている感が大きい)。
新幹線の建設に関しては、その開業効果が大きいことから、沿線の利害に関係することとして建設時よりさまざまな政治介入がなされてきたといわれる。
最も古い話では、東海道新幹線の建設時に起こった京都駅の設置是非をめぐる問題や、大野伴睦の介入による岐阜羽島駅の設置騒動がある。ただし岐阜羽島駅の設置には、関ヶ原の降雪対策という政治的な影響力とは別の理由もあり、政治力のみで設置されたわけではないと言われている。
また逆に、一度は着工された駅新設が、その新設を争点とした選挙での県知事交代によって凍結に追い込まれた、滋賀県の南びわ湖駅の例もある。
日本では、新幹線という単語がすでに高速鉄道そのものを意味する普通名詞と化しているため、報道などでは日本国外の高速鉄道についても国名を付けて「○○新幹線」「○○版新幹線」「○○の新幹線」と広く呼ばれている(例:TGVはフランス新幹線、ICEはドイツ新幹線、KTXは韓国新幹線、ER200はロシア新幹線、台湾高鐵は台湾新幹線など)。
しかし、日本の新幹線は車両・軌道・架線・信号 (ATC) などを総合した独自のシステムであり、ミニ新幹線を除けばヨーロッパのように在来線と相互乗り入れしているわけではなく、他の高速鉄道システムとは区別することがある。英語では、日本の新幹線は Shinkansen と表記されるように、新幹線とは日本の高速鉄道システムの固有の名称として取り扱っている。技術的には、他国の高速鉄道と異なり在来線とは独立したシステムとなっているのが特徴で、動力分散方式など独自性が強いのも特徴である。もっとも、車両が新幹線とほぼ同一であるなど仕様が近い台湾高鐵に関しては高雄捷運の日本語アナウンスなどで「台湾新幹線」と呼称している例も存在する。
新幹線では、基本的には午前0時から午前6時までの列車の運転を営業・非営業列車を問わず実施していない(ダイヤが乱れた場合を除く。またこの時間は区間によっては保線作業に充てる場合もある)。ただし、北海道新幹線の青函トンネル界隈の区間では、在来線と共用しており、在来線の貨物列車はこの時間帯にも運転されている。また、在来線に直通する山形新幹線の在来線を走行する区間(奥羽本線 福島駅 - 新庄駅間)では、この時間帯にも運転されている列車がある。
法律面では新幹線の運営を特定していないが、運営がJRグループに継承されている理由としては、
ということが挙げられる。
静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が存在する。これは昭和30年代の新幹線計画にちなむものではなく、戦前の弾丸列車計画時代のものである。弾丸列車計画時代に新丹那トンネルの工事を行うための従業員宿舎が置かれた場所で、工事終了後に宿舎は撤去されたが、その後同地に住宅団地が建てられ「新幹線」という地区が生まれることとなった。この地区には新幹線公民館や「幹線下」という名のバス停も存在している。
東京都国分寺市の鉄道総合技術研究所のある場所の地名は「光町」である。国分寺市が1966年に町名整理を行った際、同研究所での新幹線開発と1964年の東海道新幹線開業を記念し、列車愛称「ひかり」にちなんで旧地名の平兵衛新田から改称したものである。由緒ある旧地名のため研究所は地元市民との交流の機会にもなっている一般公開を「平兵衛まつり」と名付けている。
鉄道路線ではなく、送電線の名称に「新幹線」と付けられたものがある。例として、猪苗代新幹線・飛騨新幹線等があり、いずれも東海道新幹線が開通する1964年(昭和39年)よりはるか以前の大正末期から昭和初期に開通しており、「新幹線」の語を最初に使ったのは旧国鉄ではなく電力会社である。
新幹線が走っていない四国旅客鉄道(JR四国)では、2014年より予土線でキハ32形気動車を改造した“新幹線風の”車両「鉄道ホビートレイン」が走っている。非電化区間を走行するために、モーターではなく、ディーゼルエンジンを動力にしている。車内には0系風の転換座席を2脚設置したほか鉄道模型も展示されている。また、汽笛は新幹線のものと同じ音が鳴る。
東北新幹線の八戸駅 - 新青森駅間開通(2010年12月4日)、および九州新幹線の博多駅 - 新八代駅間開通(2011年3月12日)に合わせて、北海道旅客鉄道(JR北海道)・四国旅客鉄道(JR四国)も含むJRグループ旅客6社共同企画として、2010年12月15日より2011年3月31日まで『THE 新幹線』キャンペーンが行われた。キャッチフレーズは「日本とともに、走り続ける夢がある」。期間中は、新幹線の駅などをチェックポイントとし、携帯電話のGPS機能を活用したモバイルラリー「“THE 新幹線”ポイントラリー『日本列島縦断 チャレンジ新幹線!』」や、JRグループの鉄道・旅行情報サイト「トレたび」でのスペシャルサイトの開設などが行われた。
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