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B-29 スーパーフォートレス
B-29は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。 愛称はスーパーフォートレス(Superfortress = 超空の要塞)。 第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期まで、米軍の主力爆撃機であった。 とりわけ大戦後期には日本の主要都市に無差別爆撃を行ったことから、日本市民の間では憎しみを込めてビー公などと呼ばれた。
B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。
高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員・乗客に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は現在の旅客機のように室内を高度約1,000mと同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備、乗員は通常酸素マスクなしで15時間搭乗していた。前部居住区画と後部居住区画との往来のために爆弾倉の上に連絡用パイプがある。
ボーイングは第二次大戦直前の1938年に登場した旅客機のボーイング307ですでに与圧客室を採用、他にもロッキード社のコンステレーションなどでも与圧室は採用されている。また防寒用の空調も完備で、搭乗員らは通常の飛行服のみで搭乗していた。 撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。
与圧室採用で、機体に旋回機関銃の射手(銃手)が乗る銃塔が装備できなくなったため、集中火器管制射手が新たに機体後部に独立して取付けられた円蓋から、機銃だけが装備された2つの銃塔を遠隔操作する方式をとった、このため射手が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かっての機銃操作はなくなり、独立した円蓋から死角なく全方位の接近機の視認が可能となった。その結果銃塔が非常にコンパクトになっている。また、敵機を照準器のレティクル内に捉えるだけで自動的に弾道計算して発砲するという優れた火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)搭載で、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰でも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、敵機はうかつに接近できなくなった。
B-29は2基の排気タービン装備ライト R-3350エンジンを4発搭載、高出力の最新鋭エンジンだが、冷却に問題があり初期には問題が多かった(B-17は1基の排気タービン装備の4発)
B-17、B-24に続き過給機として排気タービンを装備。ターボチャージャーは各国で開発が進められていたが、大戦中に実用化したのはアメリカのみ。この他、高高度での出力確保のため、アメリカとイギリスでは機械式の2段2速過給機が実用化されていたが、ドイツや日本では1段2速過給機装備だった。このタービンには排気ガスと回転による高温高圧がかかるため、強度を維持するには高度な合金・冶金技術が要求された。しかしアメリカは耐久力向上ではなくタービンを消耗品と割り切り、交換前提の設計とすることで素早く実用化した。
戦時中、日本では「空の要塞」B-17を超える「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」[2][3]と呼んだ。現代では『超要塞』という訳もある[4]。他にも巨大な機体を龍に喩え、それを撃墜した二式複座戦闘機が屠龍と呼ばれるようになった。
アメリカ軍が対日戦において付けた愛称には、トウジョウズナイトメア、タナカターマイトがある。他にもチョットマッテ(第98爆撃群第344爆撃隊所属、機長ウォルター・リーチ大尉)、カグツチ、トウキョウローズ、ヨコハマヨーヨーの愛称がある。
アメリカ陸軍の航空部門であるアメリカ陸軍航空隊は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。
そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とされるべきとの勧告している。
1940年6月27日、XB-29が発注され、1942年9月21日に試作第一号機であるXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって初飛行した。エディ・アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日のテスト飛行中に発生したエンジン火災によって機体が失われ事故死、また、他の搭乗員も脱出に失敗、乗員全員が死亡した。さらに操縦不能の機体が五階建てビルに衝突、ビルにいた19名の民間人と、事故処理の消防隊員1名が死亡の大惨事となった。なお、41-003はB-29最初の事故による喪失機である。B29の開発に絡む航空軍の方針や航空機メーカーの取り組み方などについて、アメリカ議会が発足させた調査委員会(後に大統領となるハリー・S・トルーマン上院議員が委員長)の調査の結果、急ピッチで開発を促す方針であった為、エンジンメーカーのライト社が、質より量優先の生産体制で、エンジン信頼性が著しく低下したことが明らかになった。トルーマン調査委員会は、メーカーのみならず航空軍に対しても、厳重勧告した。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。
1944年4月にヨーロッパ経由でインドへ向かう途中、イギリス本土に立ち寄ったB-29はドイツ空軍偵察機が偶然発見、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29実戦投入の事実はドイツ空軍を狼狽させ、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせた。しかし、B-29はすでに1943年8月のケベック会談で対日戦専用とされ、ドイツ空襲には使用されなかった。
同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中であった第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった[5]。
インドからさらに中国内陸部成都へ移動し、6月半ばから満州国、東南アジアそして日本本土の九州方面に爆撃を行なう。
B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃を行った。昼間迎撃には、単発単座の二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」、五式戦闘機、零式艦上戦闘機、雷電、紫電改などが使用された。しかし、日本の単発戦闘機は性能面で高高度飛行が苦手で、また大戦後期には材料や工員の質が低下し、高オクタン価航空燃料や高品質潤滑油も不足、排気タービン・インタークーラー装備のB-29の迎撃は困難で、1万mの高空を巡航速度が乗った状態で飛行するB-29には追いつくのも困難で、またかろうじて一撃をかけたとしても、高度を回復できずにその後の攻撃が続かないという有様であった。このため陸軍の震天隊・回天隊や、海軍は厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。
夜間の双発複座戦闘機による迎撃も行われ、B-29の日本本土初来襲(八幡空襲)である1944年(昭和19年)6月16日から終戦まで、二式複座戦闘機「屠龍」で北九州の夜間迎撃に参加した飛行第4戦隊の樫出勇陸軍大尉はB-29の26機撃墜を報告している。
6月16日、八幡製鐵所を主目的とする日本本土初空襲たる八幡空襲にはB-29 75機が参加、喪失損害は事故を含め7機喪失(うち被撃墜は2機)、6機被弾であった。8月20日の再度の八幡爆撃では、飛行第4戦隊は80機のうち23機撃墜を報告、これに対し損害は3機未帰還、5機が被弾した。米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器によるもの1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突によるもの1機、日本機撃墜17を報告している[6]。
11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃にあたり、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)[7]。
B-29は膨大な燃料が必要で、成都への燃料輸送の労力もまた膨大で効率的ではなかった。東京など日本の主要部への本格的な参戦は1944年11月からで、11月1日にトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が東京偵察を行ったのが始まりである。このB-29は派生形のF-13であり、この型には他に第2回東京偵察行を行い、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など、偵察任務に使用された。その後11月24日以降はマリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を開始した。当初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高高度からの精密照準爆撃を行なったが、当時ジェット気流の影響がアメリカには知られておらず、その影響で目標から外れることも多かった。1944年11月29日には第73航空団所属の29機が初めて東京の市街地へ無差別爆撃を行い、ハロルド・M・ハンセン少佐の指揮する機体番号#42-65218機が帰路、海上で墜落し搭乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。
1944年12月18日、三菱重工名古屋機体工場を爆撃したレオ・E・コンウェイ中尉の指揮する機が損傷し、編隊から脱落したところを陸軍飛行第55戦隊遠田美穂少尉らが集中攻撃をかけて撃墜。
サイパンのB-29を指揮する第21爆撃集団司令官であるヘイウッド・S・ハンセル准将は、1944年11月23日から出撃命令を出していたが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった[8]。そのため、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは、中国からのB-29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[9]。ルメイはすでにハンセルによって準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが[10]、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更した。理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手を外して爆弾を200キロ増やし、編隊ではなく単機直列に変更した。ルメイの変更に乗員は恐怖したが、結果的にB29の損害は軽微であった[11]。それ以降続けられた東京・名古屋・大阪をはじめ、日本各地の都市に対する爆撃は効果を発揮した。
夜間は、センチメートル波の小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備の双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。日本軍戦闘機の機上レーダーの不備と防空管制システムの不十分さに気づいたカーチス・ルメイは、東京大空襲の際には高度7,000-8,000ft(2,100-2,400メートル)の低高度から焼夷弾を投下する作戦を採った。その際B-29の尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やした。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された[12]。
日本陸軍は高度1万mの高高度を飛行する爆撃機を迎撃可能な三式十二糎高射砲や五式十五糎高射砲を制式化し日本劇場や両国国技館の屋上などに設置した。実際に三式十二糎高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式十二糎高射砲が120門、五式十五糎高射砲に至っては2門と極めて少なく、全国各地の都市に対し100-500機以上の編隊での無差別爆撃に対してほとんど機能しなかった。日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の八八式七糎野戦高射砲と九九式八糎高射砲であり、当時の国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、戦後の米軍発表の損害記録では、日本上空で撃墜あるいは損傷を受けたアメリカ軍機(主としてB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で全体の65%で[13]、本土防空の主力として活躍したのは防空戦闘隊ではなく高射砲部隊である。また、首都防空を担当する高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町の大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜したものです」と発言している。
8万人以上の一般市民が焼死、100万人以上被災の東京大空襲や、1万人が焼死の大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要な港湾や海峡に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾の搭載量も2-3トンであったが、1945年になると防御火器を撤去し5-6トンを搭載するようになり、最盛期にはB-29約400-500機の大編隊で来襲するようになった。同年春以降は、東京・大阪・名古屋などの大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。また、アメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成し、B-29によって全国32の都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。
B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知っていたとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がることになった。
被弾・故障し帰還および帰還後に喪失するB-29が多いため、不時着用と護衛戦闘機の基地として硫黄島が選ばれ、アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪取した(硫黄島の戦い)。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置されて乗員の救助にあたった。
1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛機としてP-51Dが随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、高射砲よるもの、またはそれらの攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29にとっても危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。
同年8月、広島市・長崎市に、原子爆弾(新型爆弾)を投下し、広島・長崎あわせて30万人以上の市民を殺戮した。広島市に原子爆弾を投下したB-29はエノラ・ゲイ、長崎市に原子爆弾を投下した機はボックスカーと呼ばれる。広島にはウラン型の「リトルボーイ」が、長崎にはプルトニウム型の「ファットマン」が投下された(詳細は広島市への原子爆弾投下、長崎市への原子爆弾投下参照)。
アメリカではこれらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができたと評価している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。
香淳皇后は、ポツダム宣言を受諾した1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(今上天皇)に手紙を送っている。その中には「毎日B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのかわかりません。B-29は残念ながら立派です」と書き記している。
大戦後も冷戦構造が顕在化した1948年のベルリン封鎖の折には、ソビエト連邦の西ベルリンへの包囲網に対抗して西側諸国が空輸作戦を展開し、B-29もその作戦に参加した。当時、イギリス本土に展開したB-29には原子爆弾が搭載されていると騒がれ、ソビエト連邦軍には脅威に映った。しかし実際にはB-29には原子爆弾は搭載されておらず、西ベルリンを包囲するソ連軍に対する威嚇と牽制が目的であった。
1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエト連邦の支援を受けつつも北朝鮮軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。
洛東江(ナクトンガン)戦線で、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中だった北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下し絨毯爆撃を加えた。平壌に対しても昼夜にかけて爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「米軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた[14]。
しかし1950年10月19日に中国人民志願軍が参戦すると、同軍に所属するソ連製戦闘機MiG-15が戦闘空域に進出し、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/hに達し、また装備している37mm機関砲も強力で、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕していた。アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速の最新鋭機であるF-86Aセイバーを投入、朝鮮半島の制空権の回復に努めた。
北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、低空から悠々と爆撃していたB-29にMiG-15が襲い掛かり、それまで戦闘での損失が殆どなかったB-29が撃墜されることもあった。1951年4月12日には、中朝国境にかかる鉄橋を攻撃するため出撃した48機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、3機のB-29が撃墜され7機が撃破されている。B-29は危険を回避する為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムSHORAN(英語版)を使用しての夜間爆撃を行った。当初はMiG-15に苦戦したB-29であったが、その後は損失も減り、中朝国境の多くの橋や北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。朝鮮戦争休戦までにB-29は延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜し、11機を撃破している。その他B-29は4機を高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下[15]。これは太平洋戦争での損失と比べると軽微ではあったが、これは単純に、基地までの距離が太平洋戦争と比べて劇的に近く、損傷しても海上に不時着する必要が無かったためで[16]、もはやジェット戦闘機には対抗できないことが明らかとなった。
B-29の後継機は、改良型のB-50およびB-36だが、上述のジェット戦闘機による撃墜が増えたことやB-52などのジェット爆撃機が戦略爆撃機の主力となったことなどで、朝鮮戦争後は次第に旧式機とみなされ主力から離れていった。しかし、1954年頃の対ソ連核攻撃シナリオでは、B-29も主力と見なされていた。一方、ソビエト連邦でも日本爆撃後に不時着したB-29を分析し模倣した爆撃機Tu-4を製造し、Il-28やTu-16などその後の爆撃機に引き継がれた。
1950年代に超音速機の開発の際にX-1などの超音速機を吊り下げて上空で切り離す役目を果たしたことが末期の活躍であり、この様子は映画ライトスタッフに登場する。その後1960年代に入る頃には退役した。
1953年にテックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された(主にトムとジェリーとの併映)。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図(そして実際に現実となる)が描かれている。
アメリカにおいてはその搭乗員と共に英雄的存在であり、搭乗員が亡くなった際に「父は父のB-29でクルーと一緒に天国へ飛んで行っただろう」との言葉を残した遺族も知られている。
陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開されており、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。
グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している[17]。
B-29所属部隊の戦績と損失 [18]
合計 | 第20空軍 | 第9爆撃集団 | |
---|---|---|---|
作戦数 | 455 | 380 | 75 |
戦闘出撃機数 | 33,234 | 31,387 | 1,847 |
その他出撃数 | 1,786 | 1,617 | 169 |
出撃機数合計 | 35,016 | 33,004 | 2,012 |
投下爆弾・機雷トン | 182,436 | 171,060 | 11,376 |
戦闘損失数[19] | 508 | 494 | 14 |
USでの訓練損失 | 266 | 260 | 6 |
損失合計 | 774 | 754 | 20 |
搭乗員戦死 | 602 | 576 | 26 |
搭乗員行方不明 | 2,502 | 2,406 | 96 |
搭乗員戦傷 | 463 | 433 | 30 |
搭乗員死傷者合計 | 3,567 | 3,415 | 152 |
損失原因が判明している147機についての損失原因の構成比率 [20]
損失原因 | 構成比率 |
---|---|
戦闘機により撃墜 | 50% |
対空砲火により撃墜 | 36% |
戦闘機・対空砲火共同 | 13% |
事故 | 1% |
アメリカ軍爆撃機の機種別損失率 [21]
爆撃機種 | 総出撃機数 | 投下爆弾トン数 | 戦闘損失機数 | 損失比率 |
---|---|---|---|---|
B-25 | 63,177 | 31,856 | 380 | 0.60% |
B-26 | 129,943 | 169,382 | 911 | 0.50% |
B-17 | 291,508 | 640,036 | 4,688 | 1.61% |
B-24 | 226,775 | 452,508 | 3,626 | 1.60% |
B-29 | 31,387 | 159,862 | 414 | 1.32% |
B-29の損失数は資料によって異なり、損失合計714機[22](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。一方USAAFの第二次世界大戦の資料では[23]、アメリカ合衆国本土における事故による損失119機、アメリカ合衆国本土から海外への輸送での損失10機、配置数3,740機、出撃回数31,387回、運用中の損失414機のうち日本軍による撃墜が147機、事故を含む他の原因が267機で、延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度としている[24]。
だが太平洋戦争中アメリカが生産し作戦に投入したB-29の機体数約3,900機対して喪失数は774機で、生産数からの損失率は約20%。1980年代までの書籍などではほぼ損害はゼロ、もしくは極めて少数であったように書いているものもあるが、実際にはかなりの数が日本軍の戦闘機や高射砲によって撃墜ないし撃破されている。
上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出しハンセルを叱咤している[25]。
ハンセルが第21爆撃集団司令官を更迭されると、後任のルメイは部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示し、低空からの市街地無差別爆撃を多用するように作戦を変更した[26]。また投入するB-29の機数も増やし爆撃の効果は飛躍的に増大する一方でB-29の損失も増加した。1945年5月25日には東京大空襲を上回る464機で東京を空襲したが、26機を損失している。これは一回の作戦で失われた最多数となった。また最多の564機のB-29が投入された5月23日の東京空襲では17機のB-29を損失[27]。
B-29搭乗員にとっても日本本土空襲は厳しい任務で特に東京への空襲については高射砲の弾幕も濃密で『地獄の業火』とある搭乗員は形容、無事でいるためには『奇跡が必要だった』と述懐している。日本軍戦闘機による迎撃も執拗であった。激戦の中では護衛のP-51と日本軍戦闘機との識別は困難で、B-29の機影以外の航空機に対し反射的に機銃の引き金を引く習慣がついていた[28]。
しかしアメリカ軍が沖縄に達し日本本土決戦が現実味を帯びてくると、日本軍は戦闘機を温存する方針を決定した。いっぽう日本本土に来襲するB-29は増加していた。B-29を迎撃する日本軍戦闘機はその温存方針によって減少したため、B-29の損失は減少していった。対日戦でB-29が最後の喪失は1945年8月8日で、3つの作戦に合計381機が出撃したが7機を失ったのみであった[29]。
B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移 [30]
年・月 | B-29総出撃機数 | 日本軍戦闘機攻撃回数 |
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1944年11月 | 611 | 4.4 |
1944年12月 | 920 | 5.4 |
1945年1月 | 1,009 | 7.9 |
1945年2月 | 1,331 | 2.2 |
1945年3月 | 3,013 | 0.2 |
1945年4月 | 3,487 | 0.8 |
1945年5月 | 4,562 | 0.3 |
1945年6月 | 5,581 | 0.3 |
1945年7月 | 6,464 | 0.02 |
1945年8月 | 3,331 | 0.01 |
戦死や行方不明となったB-29の搭乗員は合計3,041人であった。搭乗員に対し「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった[31]。実際、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の搭乗員は正式な捕虜として捕虜収容所に送られた。しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。B-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、私刑の上虐殺される危険があった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。老人や女子供ら都市民に対する無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員の捕虜は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑された。敗戦後、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員の捕虜38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け翌1949年9月17日に処刑された。群馬県邑楽町の清岩寺、丹沢山や青梅の山中には墜落し死亡したB-29搭乗員の慰霊碑がある。日本軍は撃墜ないし墜落したB-29を分別しジュラルミンを再利用した。
1945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕虜となり、うち6人は死刑とされ、同年5月17日~6月2日にかけ九州帝国大学医学部において、彼らに対する生体解剖実験が行われた。(九州大学生体解剖事件(相川事件))
なお撃墜されたり墜落して日本軍の捕虜となった搭乗員は、広島や長崎など主要都市に置かれた俘虜収容所や陸軍刑務所に収容された。広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の時、収容されていた米軍搭乗員の捕虜からも被爆して死亡した者が出ている。他の都市でも空襲の時、収容されていた多くの米軍搭乗員の捕虜が焼死した。
スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離戦略爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月29日の「トランプランプ」、8月の「ケイトポーマット」、及び11月の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル」、「ディングハウ」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命によりモスクワで解体調査された。トランプランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1946年夏に完成したのがツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)である。
その後1947年8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばにはソ連戦略爆撃軍で本格的に運用された。1950年代の終わりまでに約1,200機が製造され、そのいくつかは中華人民共和国の人民解放軍に引き渡された。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。
その後ツポレフTu-4は、Tu-95に発展した。
出典:航空情報編集部編『第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌』110頁・酣燈社1964年刊
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
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B-29 | アメリカ | National Museum of the United States Air Force | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-27297。「Bockscar」。長崎への原爆投下をおこなった機体。[1] | |
B-29 | アメリカ | Museum of Flight[2] | 公開(モスボール状態) | レストア中 | 米陸軍 S/N S/N 44-69729。同 Museum でレストア中。劣化防止のためレストア作業中断時はモスボール状態で保存されている。National Museum of the United States Air Force より Museum of Flightに貸し出されている機体。[3] | |
B-29 | アメリカ | National Air and Space Museum | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-86292。「Enola Gay」。広島に原爆を投下した機体。[4] |
この他にも、現在唯一飛行可能なB-29、44-62070"Fifi"がある
東京大空襲や広島・長崎原爆投下などを扱ったノンフィクション作品(『ガラスのうさぎ』など)に史実として登場する以外の、フィクション作品について取り上げる。
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