Our 3D CAD supplier models have been moved to 3Dfindit.com, the new visual search engine for 3D CAD, CAE & BIM models.
You can log in there with your existing account of this site.
The content remains free of charge.
Licensed under Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 (Eric Gaba, Wikimedia Commons user Sting).
エッフェル塔 | |
---|---|
La tour Eiffel | |
| |
施設情報 | |
所在地 | フランス・パリ7区 |
状態 | 完成 |
建設期間 | 1887年 – 1889年 |
用途 |
展望タワー 電波塔 |
地上高 | |
最頂部 | 324メートル (1,063 ft) |
屋上 | 300.65メートル (986 ft) |
最上階 | 273.0 m (896 ft) |
関連企業 | |
設計 | ギュスターヴ・エッフェル |
構造エンジニア | ギュスターヴ・エッフェル |
所有者 | フランス パリ市 (100%) |
エッフェル塔(エッフェルとう、仏: La tour Eiffel)は、フランスの首都パリの象徴的な名所となっている塔である。パリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。エッフェル塔の名は、塔の設計及び建設者であるギュスターヴ・エッフェルに由来する。
19世紀後半、建築技術の進歩や新素材の開発、産業革命による工業力の増加や総体としての富の増大によって、先進各国において相次いで高層建築が建設され、国家の威信をかけて高さ競争が繰り広げられていた。1647年から200年以上にわたって世界で最も高い建築物はフランス・ストラスブールのストラスブール大聖堂(高さ142m)であったが、1874年にはドイツ帝国・ハンブルクの聖ニコライ教会が147mとなってそれにとってかわり、それ以降、この地位は、数年ごとに交代を繰り返すようになった。1876年にはフランス・ルーアンのルーアン大聖堂が151m、1880年にはドイツ・ケルンのケルン大聖堂が完成して157mとなった。ここまでの高さ競争はすべて教会の尖塔であったが、1884年にはアメリカのワシントンD.C.に高さ169mのワシントン記念塔が完成し、これが世界で最も高い建造物となっていた。しかしいずれの建造物も高さは140mから160m台に過ぎなかった。
1889年のフランス革命100周年を記念してパリで第4回万国博覧会が開催されることが1884年に決定したものの、当初はそれほど目玉となるプランがあるわけではなかった。そうした中、橋梁建設、特に鉄橋において高い評価を得ていた建設会社・エッフェル社の技師であるモーリス・ケクランとエミール・ヌーギエは1884年5月に、高さ300mの鉄の塔を建てて万博のシンボルとする案を立てた。この案に同じく社員であるステファン・ソーヴェストルが修正を加え、現在みられるエッフェル塔とほぼ同じ計画案を作成した。この案は社長であるギュスターヴ・エッフェルの賛同と強力な支援を受け、各方面に売り込みが行われた[1]。
1886年、万博の目玉となる大建造物を選定するためのコンペティションが開かれると、エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出した。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴェストル、ケクランらの設計図であった。エッフェルらの案は満場一致で採択され[2]、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。
建設候補地となったのはセーヌ川をはさんだシャン・ド・マルスとトロカデロの2つの地区であったが、トロカデロは地下に空洞があったために地盤が不安視され、シャン・ド・マルスへの建設が決まった。7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなったが、これは予想される総工費650万フランの4分の1以下に過ぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった[3]。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。
1887年1月28日に起工式が行われ、エッフェル塔建設が開始された。まず基礎工事が開始され、潜函工法によって6月11日には基礎が完成した。ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、1888年3月には1階の展望台が完成して4本の脚がつながった[4]。同年8月14日には2階展望台が完成し[5]、1889年2月24日には3階展望台の工事が着工[6]。1889年3月30日には竣工した[7]。3月31日にはピエール・ティラール首相らを招いて竣工式が行われた[8]。
建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで完成した。またエッフェルは熟練作業員による少数精鋭主義を取るともに工事中の安全対策には特に意を払い、その結果工事期間中の死者は1人にとどまった[9]。総工費は650万フランであった[10]。
あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している[11]。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが[12]、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。
1889年5月6日に開幕したパリ万博において、エッフェル塔は目玉となり、パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。ただし開幕時にはいまだエレベーターが完成しておらず、エッフェルがエレベーターなしでの一般公開に反対したこともあって、観光客の入場はできなかった[13]。エレベーター自体は5月15日に完成したものの、テストが必要なためまだしばらく商業運行は不可能だった。しかし来場者や市民からの不満の声が高まったため、同日エッフェルは塔の一般公開に踏み切り、観光客は階段で展望台へと向かった[14]。エレベーターは5月26日に運行を開始した[15]。エッフェル塔は大盛況となり、1889年の入場者数は200万人を記録した[16]。
万博終了後、エッフェル塔の来訪者は減少していったが、なおも年間20万から10万人台の入場者数は保っていた。1900年に再びパリで万国博覧会が開催されることが決定すると、エッフェル塔は再び万博のパビリオンとして多くの観光客を集めたが、その後は入場者数は低迷を続けた。こうしたことから、塔の権利がパリ市に移る1909年には解体されることが確実視されていた。しかし1904年、フランス軍で通信を担当していたギュスターブ・フェリエが軍事用の無線電波をエッフェル塔で送受信することを提案し、そのため国防上重要な建築物ということで、取り壊しを免れることとなった。この電波塔としての役割は非常に重要なもので、現代にいたるまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。第一次世界大戦では塔からジャミングを出して、ドイツ帝国軍を悩ませた。
2011年12月に日刊紙フィガロで、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道された。ただしパリ市や塔運営会社は否定している[17]。
エッフェル塔は鋼製ではなく、鋼よりも炭素含有量が少なく、強度の低い錬鉄でできている[18]。展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6m、第2展望台が115.7m、最も高い第3展望台が276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年にニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。
この節の加筆が望まれています。 |
エッフェル塔は錬鉄で作られているため、防錆のためにも塗装は欠かせない。塗装の色はエッフェルブラウンと呼ばれている。ただし、これは1色ではなく、3つの色調が使い分けられており、塔の下部はより暗い色調(明度の低い色)、塔の先端部はより明るい色調(明度の高い色)に塗り分けられている。これらの塗料の総重量は50tにも達し、7年ごとの塗り替え作業には40万人時の工数を要する[19]。
現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた[20]。この数字は、2006年に塔を訪れた6719200人を含んでいる[21]。エッフェル塔は、世界でもっとも多くの人が訪れた有料建造物である[22]。
エッフェル塔内部にはパリの景色を一望できるレストランが開業している。特に有名なのが、ミシュランガイドでも1つ星を獲得したことのある「ジュールベルヌ」である。
先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、1887年2月14日の「ル・タン(Le Temps)」紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、エルネスト・メソニエ(画家)、ウィリアム・ブーグロー(画家)、シャルル・グノー(作曲家)、シャルル・ガルニエ(建築家)、アレクサンドル・デュマ・フィス(作家)、ルコント・ド・リール(作家)、ギー・ド・モーパッサン(作家)らがいる。以下はその文書の一部である。
これに対し、ギュスターヴ・エッフェルは、これから建設されるエッフェル塔を芸術的な観点と実利的な有用性の側面から同紙にて反論している。以下はその文書の一部である。
また、塔の有用性に関しては以下のように述べている。
エッフェル塔の建設は世界に大きな衝撃を与えた。それまで世界最高だったワシントン記念塔の高さ169mの2倍近くにもなる巨塔の建設によって高さ競争は鎮静化し、以後巨大建造物の高さ競争は教会や高層ビルなど、エッフェル塔を除いた各部門別によって争われるようになった[23]。1930年にニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでの41年間にわたってエッフェル塔は世界最高の建築物であり続けた。またエッフェル塔によって実現された鉄骨による塔というコンセプトも広がり、世界各地にエッフェル塔のレプリカや影響を受けた塔が建設されるようになった[24]。
青いエッフェル塔(フランスの欧州連合理事会議長国が始まった時:2008年7月)
[ヘルプ] |
ポータル パリ |
This article uses material from the Wikipedia article "エッフェル塔", which is released under the Creative Commons Attribution-Share-Alike License 3.0. There is a list of all authors in Wikipedia
3D - 3D Model - 3D CAD - 3D Building - 3D monument - 3D Map - 3D City - 3D GIS - LIDAR - CityGML - Paris London Berlin Rome Sydney Barcelona Vienna Wien Budapest Madrid London