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種類 | 公開会社 |
---|---|
本社所在地 |
フランス パリ Ave de la Grande Armée |
設立 | 1882年(自動車メーカーとして) |
業種 | 輸送用機器 |
事業内容 | 自動車メーカー |
主要株主 | PSA・プジョーシトロエン |
外部リンク | www.peugeot.com |
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プジョー(Peugeot S.A.)は、フランスに本拠地を置く、世界最古の自動車量産メーカーである。同じくフランスの自動車会社シトロエンとともに企業グループ「PSA・プジョーシトロエン」を構成している。
その他、50cc - 500ccのモーターサイクルを欧州市場にて、製造販売している。また19世紀末より1980年代まで自転車を製造しており、プジョーの自転車は通算10回、ツール・ド・フランスの総合優勝者の使用機材となっている。
後ろ足で立ち上がるライオンをかたどった企業ロゴ(ベルフォールのライオン)を採用している。
フランス東部フランスシュ・コンテのValentigneyにて1810年頃から冷間製鉄、歯車、ペッパーミル(コショウ挽き)や鯨の骨からポンパドゥール・スカートの骨を作ったりする金属製造業を営んでいたエミール・プジョーとジャン・ペリエの息子として1849年に生まれたアルマン・プジョーが1865年から経営に参加し、のちに会社としてプジョーを創設した。1882年に"Le Grand Bi"というペニー・ファージング型の自転車を同社のラインナップに追加、その後自動車に興味を持ったアルマンは、ドイツの技術者であり内燃機関および自動車開発のパイオニアであったゴットリープ・ダイムラーらと会ったあと、1889年に蒸気エンジンを搭載した3輪のプジョー初の自動車を4台製作し自動車製造業を始めた。翌1890年ゴットリープ・ダイムラー、エミール・ルヴァッソールと会合をした上で、パナールがダイムラーのライセンス下で製造するガソリンエンジンを蒸気エンジンに替わって採用することになる。その後製造台数を徐々に増やしていき1895年までに約140台を製造しており、世界最古の量産自動車メーカーのひとつとして知られている。1896年には初のプジョー製エンジンを搭載したタイプ15を登場させると同時にSociété Anonyme des Automobiles Peugeotを創立し、甥のロベールの経営によって発展を続けていく。
1974年には経営不振だったシトロエンを吸収合併し、持株会社「PSA・プジョーシトロエン」(当初は単にPeugeot Société Anonyme、PSA)を設立、さらに1979年にはクライスラー UK(旧ルーツ・グループ)およびシムカ)を傘下に収め、フランス最大の自動車メーカーとなった。自動車だけではなくスクーターなどを中心に自動二輪車も別会社プジョー・モトシクルで生産している。PSAグループの自動車生産台数は本田技研工業とほぼ同規模である。
1929年に登場した201から乗用車の車名を“x0x”のように真ん中にゼロを入れる三桁の数字とする伝統が続いていた[1]。ちなみにポルシェが開発コード「901」を市販化の際に911と改めたのはプジョーからの申し立てによるものである[2]。2004年発表の1007からMPVやSUV系の車種に四桁の数字を車名とする規則が導入され[1]、更に2010年のRCZでは201以降初めて数字を用いない車名が使用された。
2012年、小型セダン301の投入と同時にプジョーは80年以上続いた命名規則を改めた。最初の数字は引き続き車のサイズを表し、真ん中の数字は引き続き「0」または「00」となる。しかし、最後の数字については世代毎に増やすことをやめ、ヨーロッパ向けの主力車種に「8」を、新興国市場向けの車種には「1」を適用することとなった[1]。なお、「301」の車名は1932年から1936年まで販売されていた車種に使用されていたものである。2013年には新命名規則の第二弾として2代目308が発表された。
1950年代以来新東洋企業、西武自動車販売によって輸入されてきたが、販売は振るわなかった。しかし1980年代半ばよりオースチン・ローバー・ジャパンとスズキが輸入元となって発売した『205GTI』が人気を得ると、徐々に注目を集めるようになった。
フランス・プジョーの日本法人プジョー・ジャポンが自ら輸入販売するようになった2000年(平成12年)以降には、『205』の後継車『206』がヒット商品となり、2003年(平成15年)には過去最高となる年間登録台数、1万5,330台を記録した[3]。
プジョー・ジャポンは2009年(平成21年)にシトロエン・ジャポンと合併、プジョー・シトロエン・ジャポンとなった。
サイクルヨーロッパジャパン株式会社がプジョーからのライセンスに基づいて、企画・製造依託・輸入・販売を行なっていたが、2004年(平成16年)末をもってライセンス契約が終了した。その後はプジョー・シトロエン・ジャポンの子会社「プジョー・シトロエン東京」が、台湾のパシフィックサイクルズ社による企画・製造品を輸入していた。
しかし2011年から再びサイクルヨーロッパジャパン株式会社がプジョー・ブランドの自転車の企画・製造依託・輸入・販売を行うようになった。
ただしプジョーは自転車から完全に撤退してしまったわけではなく、自転車競技チームのチーム・プジョー・サイクルズ・ニッポンのスポンサーなどもしている。
プジョーには日本のプリンス自動車第一号車「プリンス・セダン」のエンジン設計の手本となったという逸話が残っている。第二次世界大戦直前、ブリヂストン創業者石橋正二郎は後援していた弁護士楢橋渡(後に政治家となる)が渡仏する際に、「一番評判の良い小型車を買ってきてくれ」と依頼した。楢橋が選んだのはプジョー・202であった。この202は戦中戦後にわたって石橋家の自家用車となったばかりでなく、その1,200ccエンジンは石橋がオーナーとなった富士精密工業が1951年に最初の4気筒1,500ccガソリンエンジン「FG4A」を設計する際の手本となった。このエンジンは改良が加えられ、プリンス・日産合併後の1968年(昭和43年)まで、スカイライン等に使用された。最終的に「プリンス・G1・G2」と呼称されたシリーズである[4]。
プジョー車の特徴として、独特の設定がなされたサスペンションと、自社製作のショックアブソーバーによる、「猫足」と呼ばれるしなやかなで路面に吸い付くような接地感のある足回りが挙げられることが多い。一般的には走行安定性を得るためのサスペンションは硬くなりがちだが、プジョー車では柔らかい乗り心地と安定性を高次元で両立している。良好な乗り心地にはフランス車に共通のソフトでコシのあるシートも大いに貢献している。
サスペンション設計自体は決して前衛的なレイアウトを採らず、常にその時代ごとの中庸な設計を基調とするが、フランスでも早期の1931年に「201」「301」に前輪独立懸架(横置きリーフスプリング式)を採用、1948年の「203」では固定軸のリアサスペンションをコイルスプリング支持とするなど、進歩性も併せ持つ。プロペラシャフトを低く位置させる低床化を目的に、1950年代までディファレンシャル・ギアへの動力伝達に時代遅れなウォームギヤ方式を伝統的に使ったが、プジョーのウォームギヤ加工は高精度で、実用性能はスパイラルベベルギヤを使った同時代の他社に劣らなかった。
また、1960年の404から406の時代までの40年あまり、デザインコンサルタントに起用したイタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナによる控え目かつ優美なスタイリングを特徴としていた。
近年では206以降、社内デザインが中心となり、吊り目のヘッドライトと大きなエアインティークによる大胆な顔つきとなった。しかし創立200周年を迎えた2010年以降は、チーフデザイナーに就任したジル・ヴィダル (Gilles Vidal) の指揮下でシンプルなデザインに回帰しつつあり、量産車ではプジョー・508から新しいデザイン言語が導入された。
プジョーは古くから積極的にモータースポーツ活動に取り組んできた。1910年代にアメリカのインディ500に自前の車体で参戦し、数度の優勝を遂げた。
1980年代から1990年代初頭にかけて、プジョーはモータースポーツ部門であるプジョー・タルボ・スポール(現在はプジョー・スポール)を立ち上げ活躍していた。元・WRCのコ・ドライバーで、後にフェラーリF1チーム監督として辣腕を振るうジャン・トッドを監督に擁し、世界ラリー選手権 (WRC)、パリ・ダカール・ラリー、パイクスピーク、ル・マン24時間レースなどのスポーツカー世界選手権 (SWC) などで活躍した。
ジャン・トッドがフェラーリに移籍後、F1にも挑戦(のちに撤退)。
1990年代後半からWRCに復帰し、チャンピオンシップを獲得するなど活躍した(ワークスは2005年に撤退)。
2007年よりル・マン24時間レースにてディーゼルエンジン車で活動していたが、経営難に伴うリストラに集中する目的から、2012年1月に突然活動終了を発表した[7]。
1980年代から1990年代初頭にかけて、プジョーはモータースポーツ部門であるプジョー・タルボ・スポールが中心となって活躍していた。当時のディレクターは、後にフェラーリF1チーム監督として辣腕を振るうジャン・トッドである。
WRCのトップが主にグループ4車両で争われていた1980年代初期、グループ会社のタルボのサンバ(プジョー・104ベースのFR駆動の小型ハッチバック)をグループ4規定のラリー仕様に仕立てた「タルボ・サンバ・ラリー」で参戦していた。
その後、プジョー・タルボ・スポールの手によって1984年のWRC、ツール・ド・コルスにて 205 T16(E1)がデビューし、初戦で2位を獲得。その後も強豪ひしめく群雄割拠のグループBの中でも、ランチア・ラリー037、アウディ・クワトロ、ランチア・デルタS4といった強敵に互角以上に打ち勝ち、数戦後には更に戦闘力を高めた改良型 205 T16 E2 を投入する磐石のシーズン運びを見せ、結果1985年と1986年の2年連続でドライバー(1985年:ティモ・サロネン、1986年:ユハ・カンクネン)とマニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得するに至った。
登場当時、覇を誇っていたフロントエンジン4WD車・アウディ・クワトロの牙城を崩し、ミッドシップ4WD車のWRCにおける優位性を確立した。のちに、同様のコンセプト及び駆動系などのレイアウトを、各メーカー毎の解釈に基づき製作されたランチア・デルタS4、MG・メトロ6R4、フォード・RS200などが続々と発表、実戦投入され、レイアウトはそのままにショートホイールベース化され、更に過激な進化を遂げたアウディ・スポーツ・クワトロ等と共に、グループB最終年となる1986年までラリー・コンペティションの歴史に残るパワー戦争を繰り広げた。
1987年以降のグループB消滅後は、205 T16(E2ベース)はパリ・ダカール・ラリーに活躍の場を移し、後継の405 T16と合わせると四連覇するという快挙を達成(1987年 - 1990年)。そのあまりの強さに「砂漠のライオン」として競合メーカーに怖れられ、のちにパリ・ダカを制する三菱自動車工業の挑戦をことごとく跳ね返した。
この2台は1987年 - 1989年パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムオープンラリークラスにも投入され、1987年、205T16による初参加で2位につけると、翌年には405T16GRを投入し、前年のライバルの記録を更新。この時の映像を使ったドキュメンタリーショートフィルム作品「Climb Dance」[8]を発表する。
205は、全日本ラリー選手権に当時のインポーターであったARJ(オースチン・ローバー・ジャパン)のサポートにより参戦した。ライバルの通称・ハチロクと呼ばれるAE86型レビン / トレノと名バトルを繰り広げたのは余り知られていない。なお、同選手権に左ハンドル車として初めてエントリーしたマシンである。
その後、1990年代前半はプジョー・タルボ・スポールが活動の主軸をグループCカーやF1に移したため、205・306・106のグループA車両でのラリー活動を比較的小規模で行っていた。
1990年代後半からは、WRCやフランス・ラリー選手権に新設されたF2クラス(2000cc以下の2ボックスFF車による競技クラス)に主に306 キットカーで参戦。ここで好成績をあげたことから、1999年からのターボ付き4WD車のWRカーでの参戦につながった。フランス・ラリー選手権では同じPSAグループのシトロエン・クサラ キットカーやルノー・クリオ MAXI / メガーヌ MAXI等と激戦を繰り広げた。ちなみに、1600ccエンジンの106 キットカーも数戦ではあるがWRCに参戦している。
1999年、206WRCを引っさげて再び参戦したWRCでは、驚異的なターマックラリーでの強さを発揮し、2000年・2001年・2002年とマニュファクチャラーズタイトル三連覇を果たし、往時の実力を示した。その後、販売戦略からマシンを307CCをベースとしたWRカー・307WRCにスイッチした。307WRCは時折早さを見せるものの、ボディの大型化により時としてカスタマー・スペック車の206WRCの後塵を浴びるほど不振を極め、2005年シーズンを最後にワークスとしてのWRC撤退を表明した。ちなみに、2005年度のワークスマシンを元としたカスタマー・スペック車が、2006年プライベートチームからエントリーしていた。2007年からはIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)に参戦。ラリー・トルコの初優勝を皮切りに毎回上位に入賞、2007年から2009年までタイトル3連覇という大成功を収めるも2010年にシュコダにタイトルを奪われた以降は苦戦を強いられタイトルから遠ざかってしまった。2013年はIRCと統合されたERC(ヨーロッパ・ラリー選手権)にワークス参戦。8戦に出場し5戦で表彰台に入るも未勝利に終わった。しかしドライバーズではセミワークスのデルタチームから出場したブライアン・ブフィエが母国コルシカで優勝を果たしランキング2位と健闘を見せた。
現在は、307WRCのカスタマー・スペック車のメンテナンスと、207のS2000クラス参戦車両の開発を行っている。
1990年代前半にはグループCカーのプジョー・905(含905 EVO / 905 EVO2)でスポーツカー世界選手権 (SWC) やル・マン24時間レースに出場した。
スポーツカー世界選手権 (SWC) には1990年から参戦。1992年にチャンピオンを獲得している。ル・マン24時間レースにも、同じくグループCカテゴリの905でエントリー。1992年・1993年に連覇を果たしている。特に1993年のル・マンでは、マシンとして円熟した905が 1 - 2 - 3 フィニッシュを飾り表彰台を独占、翌年フェラーリへの移籍が決まっていたチームディレクター、ジャン・トッドの有終の美を華々しく飾った。1994年、スポーツカー世界選手権の消滅を受け、プロトタイプクラスで行われる耐久レースからは撤退した。
2007年より、近年耐久レース界で圧倒的な強さを誇るアウディ・R10 TDIに対抗すべく、ディーゼルエンジン搭載のプロトタイプレーシングカーである908 HDi FAPにてル・マン24時間レースへ再参戦を開始。ドライバーにはジャック・ヴィルヌーヴを始めとする元F1ドライバーを多数起用しており、優勝を目指す姿勢を鮮明に打ち出している。しかし、速さはあるものの信頼性に問題を抱えており、2009年に初優勝するまでアウディに勝利を明け渡すこととなる。2011年に905から3世代目となる908がデビューし、2012年から復活するFIA 世界耐久選手権にもエントリーの意向を表明していたが、2012年1月に突然活動終了を発表した[7]。
F1には、1994年にマクラーレンにエンジン供給を行なう形で参入。以後1995年 - 1997年にはジョーダン、1998年 - 2000年にはプロストへエンジン供給を行ったが、結局一勝も挙げることなく、2000年を最後に撤退。その後F1エンジン開発部門はアジアテックに売却されたが、そのアジアテックも2002年シーズン終了とともに消滅した。プジョーにとってのF1レースへのエンジンメーカーとしての参戦は、苦く惨憺たるものであった。
プジョーは1882年発表の「Grand Bi」から1926年まで自転車を製造販売していた。自転車部門は1926年に別会社として独立し、モーターバイクの製造にも進出した他、スポーツ用の自転車の名門としても知られたが、1980年代にはその勢いは衰え、1987年にモーターバイク部門が分離。1980年代末にはプジョー・ブランドの自転車の商標権をサイクルユーロップ(Cycleurope )に貸与した。
しかし1990年代に入って自転車市場が復活の兆しを見せたため、1990年代末にオートモビル・プジョーは自転車部門の復活を決定[9]。現在はマウンテンバイク、クロスバイク、ツーリング車、子供用自転車の4分野で自転車を販売している。
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