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この項目では、国家について説明しています。大陸については「オーストラリア大陸」を、その他の用法については「オーストラリア (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
(国旗) | (国章) |
公用語 | 英語 |
---|---|
首都 | キャンベラ |
最大の都市 | シドニー |
独立 | イギリスより 1986年3月3日[2] |
通貨 | オーストラリア・ドル (AUD) (A$) |
時間帯 | UTC +8から+10註2(DST:一部地域で採用註2) |
ISO 3166-1 | AU / AUS |
ccTLD | .au |
国際電話番号 | 61 |
オーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、英語: Commonwealth of Australia)[3]、またはオーストラリア(Australia)[4][5]は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。日本では、豪州(濠洲、ごうしゅう)とも呼称される。
総面積は世界第6位である。近隣諸国としては、北にパプアニューギニア・インドネシア・東ティモール、北東にソロモン諸島・バヌアツ、南東にニュージーランドがある。
2014年、同国の一人当たりの国民所得は世界第5位であった[6]。同国は国際連合、G20、イギリス連邦、ANZUS、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関、アジア太平洋経済協力及び太平洋諸島フォーラム加盟国である。
18世紀末期における最初のイギリスの植民までの少なくとも4万年の間[7][8][9]、おおよそ250の言語グループに分類される言語話者の先住民が居住してきた[10][11][12]。彼らの食文化ブッシュ・タッカーは1970年代から注目された。
1606年におけるオランダ人探検家によるヨーロッパのオーストラリア大陸発見後、1770年にイギリスが同大陸の東半分を領有主張し、1788年1月26日からニューサウスウェールズ州の植民地に初めて流刑を通じて定住が開始された。その後の数十年間で同大陸の調査が行われ、人口は着実に増加し、さらに5つの自治王領植民地が設立されていた。
19世紀前半にメリノ種の牧羊が普及した。1859年に持ち込んだウサギが牧草を食ってしまい、羊毛生産量を減じた。バサーストに始まったゴールドラッシュの開拓者に食わせる肉が必要だった。19世紀後半には鉄道が敷設されてゆき、ケーブル・アンド・ワイヤレスが陸揚げを果した。経済は羊毛からジリ貧となって、義賊ネッド・ケリーが出た。彼はメルボルン万国博覧会の期間中に処刑された。ベアリング恐慌が響いて1893年5月頭バンクホリデーに陥った。
1901年1月1日、6つの植民地が連合し連邦を形成後、6つの州及びその他特別地域から成る連邦議院内閣制及び立憲君主制の役割を果たす安定した自由民主主義の政治体制を維持してきた。2,360万の人口は、高度に都市化された東部の州及び沿岸部にかなり集中している[13]。パリ講和会議には、首相ヒューズが全権代表として参加した。太平洋の旧ドイツ領諸島の帰属については、日本と激しく争った末に、赤道を挟んで北側を日本が、南側をオーストラリアがC式委任統治領として確保することで妥結した。また、日本が提案した人種平等案(国際連盟規約への人種差別撤廃条項挿入)に対してはカナダと共に反対し、これを阻止した。ワシントン会議では蚊帳の外に置かれたが、1925年には太平洋問題調査会がホノルルで発足、1961年まで活動した。
1950年、フランク・フェナー博士(Frank Fenner)が指揮する調査のあと、野ウサギを駆除するため粘液踵症ウイルス(天然痘の遠い親類)が撒かれた。半年足らずで蔓延し、個体数を二度と繁栄できない数にまで減らした。
1960年代と1970年代は激動期であった。羊毛主体であった産業構造は鉱業主体となった。この間にまずポセイドン・バブルが起きた。それから国際的に遅れて変動為替相場制をとった。また、この期間にオーストラリア系銀行は日本・香港・マレー半島を除く極東地域で支店数を増やした。1961年にたった12店舗であったのが1978年に528店舗となり、これほどの急展開を諸外国の銀行に見ることはできなかった[14]。1986年、ロイズ銀行がスタンダードチャータード銀行に買収をしかけたとき、主役のロバート・ホームズ・アコート、HSBCの包玉剛、メイバンクのクー・テクバ、以上の三人が阻止に成功した[15][16]。ロバートの出身はイギリスのヘイツベリー(Heytesbury)男爵の閨閥であるが、ヘイツベリーは19世紀初期の腐敗選挙区であった。ホワイトナイトを演じたロバートは、スタンダードチャータード銀行のトップ・マネジメントに迎えられた[17]。クー・テクバはスタンダードチャータード銀行の重役を辞めた[16]。一番上の息子邱万福(Khuu Ban Hock)はブルネイ国立銀行(National Bank of Brunei)元会長であったが、同行で金融犯罪に手を染め折り悪く有罪を認めていた[18][19]。ブルネイ国立銀行はクーが王族と出資割合7対3で1965年に創立したが[20][21]、ブルネイ通貨委員会の設立が2年後であるのと比べて早い。この1986年にはHSBCと懇意の李嘉誠が万科城市花园别墅(Vanke City Garden)を中国光大グループに売却し内部者取引として非難を浴びているが[22]、2000年Powercor Australia を買収[23]、2013年PA親会社の南オーストラリア電力の持つ利権をめぐって税務署と衝突し[24]、2017年1月現在も電力事業の買収を続けている[25]。2014年7月、マレーシア・インドネシア・ベトナム各国政府高官と関係する汚職について、過去のものを含むあらゆるメディアが政府の命令で検閲を受けていたことが、オーストラリア準備銀行筋でウィキリークスの公開により明らかとなった(英語による詳細)。この翌年にマレーシアで1MDB をめぐる汚職が報道され、パナマ文書が捜査に活用された。
正式名称は、Commonwealth of Australia(英語発音: [ˈkɔmənˌwelθ əv ɔ(ː)ˈstreiljə] コマンウェルス・ァヴ・オ(ー)ストゥレイリャ)。通称、Australia 発音(豪)[ヘルプ/ファイル] 発音(米)[ヘルプ/ファイル]。
通常日本語の表記は オーストラリア。Commonwealth of に対応する語として「連邦」を付け オーストラリア連邦とすることもある。実質的には共和政体をとるが、形式上は世襲の英国(女)王を元首に戴く君主国であり、Republic of(〜共和国)とすることはできないことから、同義語・類義語の Commonwealth of (17世紀中葉に成立した共和政時代のイングランドの英名は Commonwealth of England であった)を用いている。したがってこれを「連邦」と訳すのは必ずしも正しくはないのだが、オーストラリアが連邦制国家であることは間違いないので、便宜上このオーストラリア連邦が Commonwealth of Australia の正式な訳語として用いられている。
漢字による当て字では伝統的に濠太剌利と表記され、またそこから濠洲(ごうしゅう)とも呼ばれる。「濠」は常用漢字の「豪」を代用して豪太剌利・豪洲と書くことも多い。しかし「剌」(ラツ)を常用漢字の「刺」(シ)に置き換えるのは音が異なるため誤りとなる。
国名の由来はラテン語で「南の地」を意味する terra australis で、これはヨーロッパにおける伝説上の大陸、テラ・アウストラリス・インコグニタ(ラテン語 : Terra Australis Incognita)のことを指している。
40000〜45000年前(60000年前、更にそれ以前とも言われる)、更新世の何回かの氷河期の結果海面が100〜150m下降した更新世末期の、今日より低海面の時代にアボリジニがニューギニア方面から渡り、先住民となったと考えられている。南東のタスマニア島に人類が渡った時期は、同島に存在する最古の人類居住遺跡が形成された時期約38,000年前であろうと考えられている。また、その時期はバス海峡に陸橋が形成されたであろう時期と合致する。[26]。
沿岸はティモール海域、ニューギニアに伸び、ともに一つの陸地(サフル大陸)であり、アラフラ海、カーペンタリア湾、トレス海峡をつないでいた。スンダ列島から海の短い距離の部分を渡って Sahul へ、続いて陸橋を渡って来たと考えられている。
考古学的証明では、西オーストラリアのスワン川上流に40,000年前、タスマニア(タスマニアも当時大陸に繋がっていた)には30,000年前に人類居住跡が見つかっている。また約42,000年前とされる人類の化石もニューサウスウェールズ州で発見されている(例: ムンゴマン)。
ニューギニア、インドネシアとの動物・植物種の共有は、当時の陸橋の結果で、最後の氷河期の終わりに海面が上昇し、ニューギニアとの間は海でへだてられた。海面レベルは6,000年前から現代までほとんど同じである。
木炭の発見から、火の使用も確認されている。狩猟採集民族は森林、硬葉樹林を開拓するためなどに使用した。耐火性の高いモクマオウ科、ユーカリ、アカシアなどが残った。
動物種では人間より大きい大型動物類の多くは絶滅し、多くの小型動物もいなくなった。ディプロトドン(全長3m、有袋類の草食動物で史上最大の有袋類、カバに似ている)、数種の大きな飛べない鳥、肉食のカンガルー、体長5mのトカゲ、小型自動車ほどの大きさの亀などを含む、約60種の脊椎動物が絶滅した[要出典]。大規模な絶滅の原因は火、狩猟、気候変動などと考えられるが、最も大きな原因は人間の介入だと思われている[27][28]。
ヨーロッパ人による入植以前の人口は分かっていない。
13,000年前に更新世末期、氷河期終焉を迎え、トレス海峡、ヴィクトリアとタスマニアの間のバス海峡、カンガルー島との間に海面が広がった。
アボリジニの伝説によると、氷河期の終焉は早く(あっという間に訪れた)、海面の上昇(陸地の失現)とともに、魚が天から降って来た、津波があったと伝えられている。
そのとき以来、タスマニアアボリジニは地理的に孤立し、9,000年前にバス海峡の島々とカンガルー島の人間は消滅した。
オーストラリアとオーストロネシアの人々との交流は長期にわたってあったと言語学、遺伝学的に証明されている。[要出典]
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2015年11月) |
1606年に当大陸に最初に到来した白人はオランダ人のWillem Janzであった。だが、赤道付近の熱帯の北部地域に上陸し、その周辺のみしか探索しなかったため、植民地には向かないと判断し、オランダ人は入植しなかった。1770年にスコットランド人のジェームズ・クックが温帯のシドニーのボタニー湾に上陸して領有を宣言し、入植が始まった。東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。アメリカの独立により、1788年からアメリカに代わり流罪植民地としてイギリス人の移民が始まった。初期移民団1030人のうち、736人が囚人 (男586人・女242人という説あり) で、その他はほとんどが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でも当地に流刑されたという。1791年の第2回囚人護送は1017人で、航海中に281人が死んだが、植民地での食糧難を加速させたため、政府は1年を待たずして自由移民を募り農地を拡大させた。
1828年に全土がイギリスの植民地となり、開拓が進んだ。内陸を探検し、農牧地を開拓した。その段階で先住民のアボリジニから土地を取り上げて放逐、殺害した。1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅させられた(ブラック・ウォー)。[要出典]19世紀の初めにはスペイン産メリノ種羊を改良し、以後、羊毛産業が発展した。なお、羊が重宝されたのは羊毛に関してだけでなく、まだ冷凍船がなかった頃、肉類の中で羊肉が長持ちしたためである。1850年代にゴールドラッシュが発生すると中国系の金鉱移民に対する排斥運動が起こり、後の白豪主義につながった。
1901年の、事実上のイギリスからの独立後もイギリス国王への忠誠からイギリスが参加した戦争には度々参加した。第一次世界大戦ではオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) として英仏軍と共にガリポリの戦いに参加し、日本から供与されたジャパニーズ迫撃砲を使用するなどオスマン帝国軍との激戦を経験した。ANZAC軍のガリポリ上陸記念日である4月25日はANZACの日として国民の祝日となっている。
第二次世界大戦では、日本軍機によるダーウィン周辺などの北部都市への度重なる爆撃や通商破壊作戦、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃を受けた。また、ニューギニアやボルネオから沖縄戦をはじめとする広範囲で連合国として日本軍と戦い、ノルマンディー上陸作戦以降はヨーロッパ西部の地上戦にも参加した。日本占領にもイギリス連邦占領軍の一員として多数の部隊を派遣したり、極東軍事裁判の裁判長ウィリアム・ウェブを出すなどして参加し、同裁判では天皇の訴追を要求した。
戦後はヨーロッパが人口激減と経済復興を経験したこともあり、白人移民は減り続けた。国力の基礎となる人口増加が鈍化したため、1980年代からは白豪主義を撤廃し、世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行した。朝鮮戦争やベトナム戦争にも積極的に参加し、アメリカと共に戦い、その後ベトナム難民を数多く受け入れた。1975年、ニューギニア信託統治地域がパプアニューギニアとして独立した。英米と協同歩調を取った2003年のイラク戦争にも参加した。
このように距離は離れているものの、同じアングロ・サクソンの英米や移民の出発地である他のヨーロッパ諸国との結びつきが依然として強い。もっとも地政学的要因から、必ずしも北半球の欧米諸国の一員として行動していられない場面も多い。特にフランスによる南太平洋ムルロア環礁での核実験の際には、北半球の欧米諸国が黙認するなかで、隣国のニュージーランドと共に猛抗議した。このときは市民の間にもフランス製品に対する不買運動が広がり、大都市のフランス有名ブランド店には一時休業を余儀なくされたところもある。
周りは荒い海であったために、16世紀頃の世界地図にTerra Australis Incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ、「南方にある未知の大地」という意味)と表されていた。
シドニーとメルボルンによる首都争奪戦のすえ、妥協案としてシドニーとメルボルンの中間地点に建設した新都市キャンベラを首都とした。
オーストラリア大陸とタスマニア島及び、その他の小さな島で構成される。オセアニア州のオセアニア大陸とは、ほとんどオーストラリア大陸に等しい。平均高度が340mと地球上の全大陸中もっとも低く、2,000m以上の地点の面積比が計算上0.0%となり、これも全大陸中もっとも低い。しかしながら、高度別の頻度分布では200〜500mに相当する面積が最も広く42%に達する。これも他の大陸にない特徴であり、つまりは低い大地が一面に広がり、起伏が小さな大陸だと言える。
当大陸の東側には古期造山帯のグレートディバイディング山脈が延びる。最高峰は首都キャンベラの南南西120kmの地点にそびえるコジアスコ山 (Kosciuszko)。標高2,228m(オーストラリア政府)、2,230m(理科年表2006)。更に東側は温暖湿潤気候、西岸海洋性気候の過ごし易い気候で人口はこの地域に集中し、ブリスベン、シドニー、メルボルンといった大都市は全てこの地域にある。グレートディバイディング山脈の西側は乾燥したステップ気候の大鑽井盆地(グレートアーテジアン盆地)であるが、井戸を掘れば水が出るので、羊の放牧が行われている。大鑽井盆地より更に西はグレートサンディ砂漠、グレートビクトリア砂漠、ギブソン砂漠等の砂漠が広がり、人はあまり住んでいない。大陸の西海岸にパースがあるぐらいである。
大陸の北東部は熱帯雨林気候または熱帯季節風気候に属し、サンゴ礁が広がるグレートバリアリーフが有名で観光地になっている。ケアンズが観光拠点になっている。
ノーザンテリトリーのウルルは複合遺産として認められた代表的な自然景観で、有名な観光地になっている。
グレートディバイディング山脈では石炭が、大陸の北西では鉄鉱石が、西部では金が産出する。大陸北部ではボーキサイトやウランが産出し、世界有数のボーキサイト・ウラン輸出国になっている。
コアラ、カンガルー、ポッサムなどの有袋類やカモノハシ、ハリモグラなどの単孔類、エミューに代表されるように、地理的隔離と気候の多様性が生んだその生態系は非常に個性的である。森林率は19%であり高山植物から熱帯雨林まで様々な植物の自生地帯が存在するが、大陸の大半は砂漠とステップ(半乾燥帯)で占められる[29]。
多くの固有の生物を守るために、厳しい検疫を行っている。
自然環境は非常に苛酷であるとされ、大陸の40%が非居住地域(アネクメネ)となっている。その理由は土壌の栄養分が極めて乏しいこと、塩害が発生しやすいこと、降雨量が少ないことの3つである。こうした悪条件により、穀物生産や牧畜業、果樹生産など広範な分野において農業生産性は極めて低い。また河川から海に流入する栄養分も貧弱なため、漁業生産もその広大な排他的経済水域から考えると非常に少ないとされる[30]。このような苛酷な環境に加え、近年の地球温暖化の影響により、降雨量が更に減少し、農業、畜産、日常生活に大きな影響を与えている。
また、ヨーロッパの入植者によって砂漠地帯開発のためのラクダ、狩猟目的のウサギやアカギツネ、サトウキビの害虫を駆除するためのオオヒキガエル、イノシシ(正確には飼育されていた豚が野生化したもの[31])など、本来生息していなかった多数の外来種が持ち込まれ野生化・繁殖し、天敵がいないため個体数を急激に増やしている。結果、在来生物を絶滅・減少させ生態系が破壊され、牧草や農作物へも被害を及ぼし問題となっている。近年、更に深刻な問題となっているのが南極上空付近のオゾン層破壊による紫外線問題であり、皮膚炎、皮膚ガン患者数は年々増加している。政府は国民に対し、外出の際には紫外線対策を怠らないように警告を促している。
政体は立憲君主制・連邦制である。成文憲法のオーストラリア憲法をもつ。イギリス国王・女王と同一人物であるオーストラリア女王が国家元首とみなされるが、実際にはオーストラリア総督が国王・女王の代行を務め、その権限は専ら儀式程度に限られる。ただ1975年に上下院が対立して予算案が議会を通らずに労働党政府の維持が困難になった際に、総督が憲法に基き議会を解散、ウイットラム首相を解任するという事件が起き、論議を呼んだ。政府は議会に対してのみ責任を負うイギリス型の議院内閣制で、政府機関には移民市民権省など特有の機関がある。共和制へ移行して、名実共に英国から独立すべきと主張する共和派も活動しており、君主制の是非を問う国民投票も何度か実施されたが、僅差で否決されている。
議会は二院制で、連邦制のため上院が優越する。選挙権は18歳以上(義務投票制)。上院は任期6年で、議員は各州から12名ずつ、特別地域(首都とノーザンテリトリー)から2名ずつの計76人から構成され(単記移譲式投票)、州を代表する。下院は任期3年で、小選挙区から1名ずつ選出され、定員は150人。主な政党は労働党、自由党、自由国民党、国民党。このうち、労働党を除く三党は保守連合(保守党)を構成している。
2015年9月現在の首相は自由党のマルコム・ターンブル。
各州ごとの憲法あるいは地方自治体法 (Local Government Act) により設置された地方自治体 (Local Government) という単位で行なわれている。地方自治体のいくつかが統合されて広域自治体 (Regional Council) となる場合もある。
2006年4月時点の地方自治体は656で、各州ごとの自治体数は次のとおり[32]。
州・特別地域 | 地方自治体数 |
---|---|
ニューサウスウェールズ州 | 151 |
ビクトリア州 | 78 |
クイーンズランド州 | 124 |
西オーストラリア州 | 141 |
南オーストラリア州 | 68 |
タスマニア州 | 29 |
ノーザンテリトリー | 65 |
地方行政区画には、都市部では、City(シティ 市)、Town (タウン 町)、農村部では、Shire (シャイア)、District (ディストリクト)がある。自治体組織を指す場合はCouncil(カウンシル 直訳:議会)を付けて呼ばれることが多い[33]。
オーストラリア陸軍、オーストラリア海軍、オーストラリア空軍からなる。オーストラリア大陸まるごとを国土とし、その広い領土・領空および長大な海岸線を防衛する必要性があることから、在外アメリカ軍を除けばオセアニア最大規模を擁する。国防費も対GDP比1%台後半で推移しており、21世紀の主要先進国としては標準的か少し高い割合となっている。イギリス連邦諸国やアメリカ合衆国などとの国際協力にも積極的であり、湾岸戦争やイラク戦争にも派兵している。
この節の加筆が望まれています。 |
日本は中国に次ぐ2番目の輸出相手国であり、鉄鉱石、石炭、牛肉などが輸出されている。近年、アジア・太平洋地域との結びつきを重視し始めており、日本製品(主の自動車や電子機器などの工業製品)も多数輸入しており、多数の日本製品が生活には欠かせないものとなっている。これらのことから、2007年に日豪FTAと呼ばれる、日本とのFTA(自由貿易協定)交渉が始まり、2014年7月調印、2015年1月15日に発効した[34]。
内外から批判は多いものの、イラク戦争で共同歩調を取ったことから政治的な友好関係が深まり、2006年には日米豪閣僚級戦略対話が行われるなど、政治、安全保障、経済、科学技術などの面での関係拡大が図られ、政治面でもアジア・太平洋地域における日本の重要なパートナーとなりつつある。1976年に、日豪友好協力基本条約が締結され、締結30周年目に当たる2006年は「日豪交流年」とされ、これを記念し国内最大のコレクションを誇るメルボルンのビクトリア国立美術館 (NGV) で、日本の漆に焦点をあて「フォーカス・オン・ラッカー展」を開催した。1984年来、同美術館に所蔵されている木漆工芸家菅沼三千子創作の赤漆盛器が改めて日豪交流の一役を担った。
2007年3月には日豪首脳会談において、日豪間の外交・防衛協力の緊密化を謳った「安全保障協力に関する日豪共同宣言」が調印された。戦後の日本にとって防衛に関する共同宣言は、アメリカ以外では初めてのことであった。これに関連し、防衛外交当局者による定期的な会議(2プラス2)の開催も決定した。一方で、同年、上院で慰安婦問題和解提言決議が採択され、慰安婦制度を『日本の歴史におけるおぞましい出来事』と批判した。
留学生や観光客が日本から訪れているほか、ワーキング・ホリデー協定を最初に締結した国(1980年)であり、現在でも対象国中で高い人気を誇っている。ケアンズやゴールドコーストのサーファーズパラダイスでは、多数の日本人の店員や観光客、日本語の看板も多く目にする。また近年、ケアンズを修学旅行先として選ぶ学校もあるが、増加を続ける外国人観光客のうち、日本人観光客は2006年9月と2007年9月との比較で10%減少し[35]、また来濠日本人数のピークである96〜97年では年間約96万人を数えたが、2010年との比較では最盛期の1/3にまで落ち込んだ[36]。
一方、スキー・スノーボード目的の観光客が、近年、日本の北海道のニセコに多く訪れている。北海道の雪質が好まれる他、「地理的にさほど離れていない・時差が少ない・季節の逆を利用して楽しめる」等の点が人気のようである。また、日本語学習者も多く、有名な観光地では日本語を話すことができる人や日本に留学したり住んでいたりする人も多くいる。日本語学習者は実際数も、総人口に占める日本語学習者の割合もどちらも欧米諸国の中でトップである。ちなみに、日本人が当地に初上陸した場所はメルボルンで、2002年の『第22回全国高等学校クイズ選手権』(日本テレビ)の関東大会第一問でとりあげられた。
日本の調査捕鯨に対して批判的であり、元環境相のイアン・キャンベル(Ian Campbell)とピーター・ギャレットはそれぞれ現在シーシェパードの国際諮問委員とグリーンピースの元理事を務めたことがある[要出典]。
MIKTA(ミクタ)とは、メキシコ (Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Korea, Republic of)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。
6つの州とその他の特別地域に区分されている。
都市 | 行政区分 | 人口 | 都市 | 行政区分 | 人口 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | シドニー | NSW | 4,336,374 | 11 | ホバート | TAS | 207,467 | |||
2 | メルボルン | VIC | 3,806,092 | 12 | ジーロング | VIC | 169,544 | |||
3 | ブリスベン | QLD | 1,867,594 | 13 | タウンズビル | QLD | 157,174 | |||
4 | パース | WA | 1,554,769 | 14 | ケアンズ | QLD | 135,856 | |||
5 | アデレード | SA | 1,158,259 | 15 | トゥーンバ | QLD | 123,406 | |||
6 | ゴールドコースト-トゥウィードヘッズ | QLD/NSW | 583,657 | 16 | ダーウィン | NT | 117,395 | |||
7 | ニューカッスル | NSW | 523,662 | 17 | ローンセストン | TAS | 104,071 | |||
8 | キャンベラ-クイーンビアン | ACT/NSW | 388,072 | 18 | オルベリー-ウードゥンガ | NSW/VIC | 101,842 | |||
9 | ウロンゴン | NSW | 280,159 | 19 | バララット | VIC | 89,665 | |||
10 | サンシャイン・コースト | QLD | 230,429 | 20 | ベンディゴ | VIC | 86,510 | |||
2007年国勢調査 |
特に、2位と3位及び5位と6位の都市人口の差が激しい。
混合経済、インフラの多くを国、州などが権利を持つ。具体例は、電話のテルストラ、各種公共交通(鉄道・バス・フェリーなど)、英語圏最古の航空会社であるカンタス。
ベルギーと同時期・同規模の外債を幹事のモルガン・スタンレーなどが引受けている。
ODA出資 : 25億 AUD
住民の80%以上がヨーロッパ系の白人であり、その他にアジア人が約12%、アボリジニなどが約2%となっている。移民は全体の約2割を占め、出身国はイギリス、ニュージーランド、中国、インド、イタリア、ベトナムが多い。
1975年に人種差別禁止法が制定されるまでは白色人種以外の移民を受け入れることを基本的に禁じていた。映画『オレンジと太陽』の児童移民もいる。
公用語は英語(オーストラリア英語)で、人口の78.5%が家庭で英語のみを使用し、最も広く使われている。また移民の割合が高いため、非英語圏から来た移民あるいはその子孫の中には家庭で祖国の言葉を使う者もおり、中国語話者が2.1%、イタリア語話者が1.6%など少数だが存在する。先住民族の言語(オーストラリア・アボリジニ諸語、タスマニア諸語)は植民地化の過程で多くが消滅し、現在まで残っている言語もほとんどが消滅の危機に瀕している。
一部では、クレオール言語(オーストラリア・クレオール言語(英語版))も使用される。
移民も多く、さまざまな人名が存在する。さらに、氏名の変更が比較的容易に可能である。また、婚姻の際には、夫婦別姓、結合姓、夫婦同姓いずれも選択可能である[37][38]。
宗教はキリスト教が主であり、2006(カッコ内は2001)年の国勢調査によれば、ローマ・カトリックが25.8%(26.6%)、聖公会が18.7%(20.7%)等を含めたキリスト教徒全体が約64%、非キリスト教が約5%(4.9%)、無宗教が18.7%(15.5%)、無回答が約12%(11.7%)である。また別の統計によれば[39]、週に少なくとも1回は教会を訪れるのは、人口の7.5%であるという。
平均寿命は男性78.5歳、女性83.3歳(2005年)。社会保険制度は存在せず、一般税収を原資としたユニバーサルヘルスケアが達成されている[40]。
公立校は各州の教育省が管轄しており、州によってカリキュラム、中学校への進学学年、学期制度などが異なる。
6歳から15歳(日本の高等学校1年)、あるいはタスマニア州の16歳(高校2年)までが義務教育期間となる。他の先進国同様、共働き家庭などの子どもはデイケアに預けられ、小学校入学前にキンダーガーテンまたはプリスクールと呼ばれる就学前教育機関に通う。キンダーガーテン(幼稚園)を幼児教育ではなく、アメリカ合衆国のように初等教育の一部とする州もある。小学校は男女共学で6年または7年生まで。中等教育はセカンダリー・スクールと呼ばれる中高一貫教育校で12年生までが通うが、例外はタスマニア州で7年から10年までのハイスクールと11・12年のセカンダリー・カレッジに分かれている。
オルタナティブ教育が盛んで、アメリカで言うところのマグネット・スクールが多く設置されており、理数系、芸術系、外国語イマージョン・プログラムなど特化教育を行っている。私立校はキリスト教主義学校とくにカトリックと聖公会に属すものが多い。教会直属の学校のほかに、イギリスと同様、インデペンデント・スクールと呼ばれる学校が多くあり、一部は名門校として知られている。授業料が比較的安いためカトリック系インデペンデント・スクールは人気があり、私立校の一分野を築いている。職業訓練の要素が強い中等後教育コースであるTAFE(州立)やVET(私立)を選択することもできる。
義務教育(高校1年あるいは2年)を終えた時点で終了試験を受け、合格すれば義務教育終了証を得るが、大学に進学しない者も3年生まで通って各州で統一された卒業試験を受ける生徒が多い。大学は卒業試験と、高校の最終2年間の成績をもとに入学審査を行う[41]。
どの州にも共通しているのは
といった点である[42]。
住民の主流を占める白人による、先住民アボリジニや他の有色人種の移民に対する迫害や差別の歴史があり、現在も黄色人種、黒人、中東系などの有色人種に対する優越思想や白豪主義が一部に存在し、2005年にはクロナラ暴動が発生した[43]。
なお、ウェスタンシドニー大学の調査によると、国民の10人に1人が「人種至上主義者」であることが明らかになり、人種差別的視点を持つ者が少なくないことが明らかとなった[44]
かつては積極的に難民を受け入れる国であったが、リーマン・ショックに端を発する経済危機をきっかけに、移民や難民の受け入れに慎重な姿勢を取るようになってきている[45]。東南アジアや南洋諸島の国々と協定を結んで、これらの国に難民受け入れの施設を建設する資金を提供する代わりに、移住を望む難民の受け入れを肩代わりしてもらうようになっている。協定を交わしている国には、カンボジア、ナウル、パプアニューギニアなどがある。しかし、これらの国に建設されている難民収容施設は、清潔な水や十分な食料も与えられず、働く場所もないなど非常に劣悪であり[46]、アムネスティ・インターナショナルはオーストラリア版グアンタナモと批判している[47]。難民保護の実績もなければ、国民ですらまともな人権を享受していない国に難民を送りつける行為を、ヒューマン・ライツ・ウォッチは批判している[47]。難民収容所では、職員による人種差別的な行為も蔓延しており、2014年2月には、劣悪な環境に耐えかねた収容者による暴動が発生し、死者が出ている[48]。
ケビン・ラッド首相は、2013年7月19日、許可無く漂着した場合は全て、パプアニューギニアへ移送する方針を発表した[49]。そのラッドから、2013年秋に政権を奪ったトニー・アボットは難民についてさらに厳しい姿勢を表明しており、「わが国に不法に入国しようとする難民船は1隻残らず追い返す」との公約を掲げ、実際にその公約を実現するために動いており[47]、近づく不法な難民船は、オーストラリア海軍によって追い出され、出港地に送り返されている[47][50]。
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イギリスの影響でフィッシュ・アンド・チップスや牛肉料理がポピュラーである。特に低価格を武器にしたオージー・ビーフは国を代表するブランドとして世界中に出荷されており、オーストラリアン・ミートパイやシェパーズパイなどのオージー・ビーフを使った料理が家庭で作られている。
イギリスの影響で独立したばかりの時代は紅茶文化の影響が強かったが、第二次世界大戦終結後に増加したイタリア系移民により、本格的なエスプレッソを楽しむスタイルに変わり、現在では著名なバリスタを多数輩出するなどコーヒー文化が根付いている。なお2000年に直営店を出店したスターバックスは、バリスタが経営する小さな喫茶店から大手チェーンまでが揃った市場に食い込めず、1億ドル以上の赤字を出した後、地元企業に運営権を売却している[51]。
菓子類はシャーベットやクリスマスプディングなどイギリスから引き継がれたもの以外に、ラミントン (菓子)やホワイト・クリスマス (洋菓子)、フロッグケーキなどのケーキ類が考案されている。
先住民の伝統料理としてはカンガルー肉などのブッシュ・タッカーが知られている。
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オーストラリアン・ルールズ・フットボール(オージーボールとも)とラグビー(特にラグビーリーグ)、クリケットが絶大な人気を誇っている。とくにクリケットの国際試合で活躍した選手は国民的英雄の扱いを受けている。海水浴やマリンスポーツに適した海岸線が長いことからサーフィンや海水浴客の救助から発祥したライフセービングなどマリンスポーツが盛んである。バスケットボールも人気があり、NBLというプロリーグも存在する。またテニスも非常に盛んであり、夏場(日本の冬の時期にあたる)ではほぼ毎日テニスの試合がテレビで放送されるほどである。また、レイトン・ヒューイットなどの有名なテニスプレーヤーを輩出していることも知られている。
ラグビーはラグビーユニオンとラグビーリーグに大別できるが、ニューサウスウェールズ州やクイーンズランド州では13人制のラグビーリーグの方が盛んである。とはいえ、いずれも世界的に見れば強豪国である。15人制のユニオン代表チーム(ワラビーズ)はワールドカップで優勝二回、準優勝一回の強豪である。トライネーションズでのニュージーランドとの対戦では国中が盛り上がる。州ごとのクラブチームもスーパーラグビーに参加している。
夏のスポーツの代表格はクリケット(ラグビーは冬の代表格)。イギリスが発祥国で、イギリス連邦などで絶大な人気を誇っており、植民地であったため、当地でもその例外ではない。
競馬は馬が持ち込まれてすぐの1810年に初めて開催され、現在でも非常に盛んに行われている。一人当たりの馬券購入額は日本やイギリスを凌いでおり、競馬場の数は平地競走、障害競走、繋駕速歩競走、クォーターマイル用を全て合わせると大小480場を数える。サラブレッド生産頭数は約18000頭でアメリカ合衆国に次ぐ世界2位、スタンダードブレッドも約6000頭でフランス、アメリカ合衆国に次ぐ規模である。
地域ごとに大レースがあり、それぞれカーニバルが並行され大きく盛り上がる。その中でも最大のメルボルンカップは、メルボルンの都市圏が祝日となり、国の機能が停止すると表現されるほどの盛り上がりとなる。第3の都市ブリズベンでは、農業省の祝日であるエッカホリデーでの競馬が有名で、皆が正装(男性は主にスーツ、女性は主にドレス)し競馬を楽しむ。
ヨーロッパからの移民(英国圏、イタリア、クロアチアなど)が多いため、サッカー競技人口自体は多かったものの、国民のナショナルチーム「サッカールーズ」への関心は薄かった。これはたとえオセアニアで一番になろうと、オリンピックに出場しようと(出場枠が1)ほとんど反響がなかった。これまで主力選手が海外で活躍していたが、2005年に国内のプロリーグAリーグが発足したことに加え、代表チームは2006年ドイツワールドカップ進出を決め(32年ぶり2度目)、、その予想以上の活躍ぶりに国内では盛り上がりを見せた。
外国人としては史上2人目のNBAドラフト1巡目1位指名選手となったアンドリュー・ボーガットが最も有名。国内にはNBLと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。男子代表はこれまでにオリンピック出場11回、世界選手権出場9回を誇る。1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピックと2大会連続で4位になるなど、オセアニアの王者としてだけでなく、世界的にも強豪である。その後の2004年アテネオリンピックや2008年北京オリンピック、世界選手権には出場し続けるものの、成績はやや不振気味。現在若手への世代交代の最中でアンドリュー・ボーガットを中心とした新たなチーム作りをしている。このボーガットを中心に、近年NBAにドラフト指名される選手が複数出てきており、復活の兆しが見えている。男子代表チームのニックネームは「Boomers」。ニュージーランド代表とは熾烈なライバル関係にある。
男子以上に世界的に有名で強いのが、女子代表である。女王ローレン・ジャクソンを始め、数多くのWNBA選手を輩出し、2000年のシドニーオリンピックから2008年の北京オリンピックまで3大会連続で銀メダル獲得。2006年の世界選手権では遂に優勝し、金メダルを獲得した。世界最強のアメリカ代表にとって最大のライバル国となっている。女子代表チームのニックネームは「オパールズ」。
メルボルンでF1、MotoGP、WSBが年1回行われており国内選手権なども盛んに行われ、数多くの年間王者を輩出しており高い人気を誇っている。
競泳の強豪国でもあり、中でもイアン・ソープはオリンピックにおいて5個の金メダルを獲得しており、人間魚雷の異名を持つスーパースターである。
ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3物件、自然遺産が12物件、複合遺産が4物件の合計19物件ある。自然に関わる世界遺産は、19物件中12物件を占める
自国の国旗には採用されていないゴールド(もしくは黄色で代用)と緑色をナショナルカラーとして1984年4月19日から制定している。そのため、この二色は様々なことに好んで用いられる。例えば、クリケットや野球、ラグビーやサッカーの代表ユニフォームにこの二色を採用している。
祝日は州毎に定められている。下記の他に競馬の大レース(メルボルンカップ、アデレートカップ、ローンセストンカップ等)や農業ショーの日は都市、地域限定の祝日となることがある。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | |
1月26日 | オーストラリアの日 | Australia Day | |
イースター | 聖金曜日 | Good Friday | 復活祭前の金曜日 |
イースター | 復活祭 | Easter Saturday | 西オーストラリア州を除く |
イースター | 復活祭後の月曜日 | Easter Monday | 復活祭翌日の月曜日 |
4月25日 | ANZACの日 | Anzac Day | |
6月の第二月曜日 | 女王の誕生日 | Queen's Birthday | 西オーストラリア州では移動祝祭日[2]。 |
不定期※ | 労働者の日 | Labour Day | 州によっては違う |
12月25日 | クリスマス | Christmas Day | |
12月26日 | ボクシング・デー | Boxing Day | 南オーストラリア州ではProclamation Day |
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国立国会図書館 http://opac.ndl.go.jp/ 資料請求記号:DM456-J16 「ビーフ産業の研究」 ‐オーストラリアンビーフのすべて‐
ポータル オーストラリア |
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