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ベルギー (14389 views - Countries & Continents)

ベルギー王国 Koninkrijk België(オランダ語)Royaume de Belgique(フランス語)Königreich Belgien(ドイツ語) 国の標語:L'union fait la force(フランス語)Eendracht maakt macht(オランダ語)Einigkeit macht stark(ドイツ語)(日本語訳: 団結は力なり) 国歌:La Brabançonne(フランス語)De Brabançonne(オランダ語)Das Lied von Brabant(ドイツ語)ブラバントの歌 ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、"EUの首都"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語のドイツ語共同体地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。
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ベルギー

ベルギー

ベルギー
ベルギー王国
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
国旗 国章
国の標語:
L'union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
(日本語訳: 団結は力なり)
国歌La Brabançonne(フランス語)
De Brabançonne(オランダ語)
Das Lied von Brabant(ドイツ語)
ブラバントの歌
公用語 オランダ語[1]フランス語ドイツ語
首都 ブリュッセル市
最大の都市 ブリュッセル
政府
国王 フィリップ
首相 シャルル・ミシェル
面積
総計 30,528km2136位
水面積率 0.8%
人口
総計(2012年 11,116,242人(74位
人口密度 364人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 3,440億[2]ユーロ (€)
GDP (MER)
合計(2008年 5,063億[2]ドル(17位
GDP (PPP)
合計(2008年3,895億[2]ドル(27位
1人あたり 36,235[2]ドル
独立

 - 宣言
 - 承認
ネーデルラント連合王国より
1830年10月4日
1839年
通貨 ユーロ (€) (EUR) [3][4]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 BE / BEL
ccTLD .be
国際電話番号 32
  1. ^ ベルギーで用いられるオランダ語はフラマン語とも呼ばれる。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  3. ^ 1999年までの通貨はベルギー・フラン
  4. ^ ベルギーのユーロ硬貨も参照。

ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、"EUの首都"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。

19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語のドイツ語共同体地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域ワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。

国名

正式名称は、

公式の英語表記は、Kingdom of Belgium英語発音: [kɪ´ŋdəm ɔ´v be´ldʒəm][3] キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞は Belgian(ベルジャン)。ラテン語表記も Belgium(ベルギウム[4])である。

日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー漢字による当て字白耳義と表記され、と略される。

日本語で言う「ベルギー」はオランダ語の België(ベルヒエ)に由来する。また、ベルギーという名称はガリアに住んでいたベルガエ人から取られたといわれている。

歴史

言語の壁

ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[5]新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[6]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[6]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[6]。紀元前6世紀ごろになるとケルト人ライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[6]

紀元前後になるとローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[6][7]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[6]。 ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[7]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレントゥルネーアルロンといった植民都市が築かれた[7]

アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[8]

3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住をはじめた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[7]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[9][10]。フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年サリ族トクサンドリア定着を認めた。

スヘルデ川とコミューン

481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクロヴィス1世トゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[10]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族ドイツ語版英語版、ルクセンブルク南部のアレマン族ブルグンド王国西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[10]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[11]

7世紀中盤ごろになるとアウストラシア宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年テルトリーの戦いネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[12]カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[12]800年サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[13]

カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国西フランク王国ロタリンギアに分けられた。さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収された。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[14]。また、9世紀初頭よりはじまったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領ブラバント伯領リエージュ伯領エノー伯領ナミュール伯領リンブルク伯領ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[14]。なかでもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[15]

10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[16]。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[17]。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[18]。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[19]

ブルゴーニュ体制の限界

1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドエドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服されてしまう。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[20]

フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[21]。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公1477年ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した[22]。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。

ハプスブルク君主国本家からスペイン・ハプスブルク朝が分かれて、フランドルはスペイン領となった。スペイン王のカルロス1世が皇帝に即位し、ゲルデルン公国ズトフェン伯爵領を併合した。こうしてネーデルラント17州が誕生した。ブルゴーニュ公国にならい、皇帝はネーデルラント総督府に軍事・立法・財務の各職掌に評議院を設けた。また、ネーデルラントへは全国三部会と別に地方三部会も置いた。1548年、アウクスブルク仮信条協定ルイ11世が占領できなかったフランシュ=コンテを17州を同一の行政単位に統合した。スヘルデ川が独仏国境としての役割を終えた。翌年、皇帝が17州の分割相続を禁じた。日の沈まぬ国を船と郵便で駆け巡る人々が往来し、アントウェルペンはコスモポリスと化した。フェリペ2世のスペイン的圧政に17州が八十年戦争を仕掛けた。長い戦争の間にカルヴァン派の北部が豊かになり、カトリックの南部が貧しくなった。17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。このスペイン領南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。ここからアムステルダムへ夥しい悪貨が流入した。これは南部にとってはやむない悪鋳であった。ヴェストファーレン条約はスヘルデ川を閉鎖してアントウェルペンを機能不全にしてしまったからである。南部が爪に火を灯しているあいだに、これ以上ないカトリック勢力のルイ14世が、オランダ侵略戦争フォンテーヌブローの勅令を試練として北部へ突きつけた。

オーストリア再び

スペイン・ハプスブルク朝の断絶により生じたスペイン継承戦争1701年 - 1714年)の結果、ラシュタット条約でスペイン領南ネーデルランドがオーストリアに割譲され、オーストリア領ネーデルラントが成立する。1715年はカトリックの厄年であった。ルイ14世が死んで、墺土戦争が起こった。そしてオーストリアは屈辱的な「障壁条約」を英蘭に飲まされた。これは、オランダをフランスから守るために、フランスがユトレヒト条約で切り取っていったベルギー領などを奪回し防壁となすという軍事同盟であった。これにより南ネーデルラントは歳入から50万エキュを天引きされた。その金は英蘭両軍の維持費用に充当された。酷いことに、この条約はスヘルデ川閉鎖に釘を刺した。オーストリアの弱体化を意図していたことは明確であった。1723年、カール6世オーストリア東インド会社英語版を認可した。このアントウェルペン資本によるベンチャー企業はインドや中国まで行った。しかし英仏蘭を相手に権益を争うことができずに1727年に解散した。仕方なしに余力資本がプロイセン王国スウェーデンの企業へ流れた。

1740年オーストリア継承戦争ではフランスが再度ベルギーを占領した。しかしアーヘンの和約によりマリア・テレジアに返された。ボッタ・アドルノ(Antoniotto Botta Adorno)、コーベンツル(Johann Karl Philipp von Cobenzl)、スタレンベルク(Georg Adam, Prince of Starhemberg)の三人がベルギーを全面的に復興させた。このときの人口増加率は欧州で最高を記録した。

1778年と1784年の二度にわたり、カール・テオドールが、自身の領国バイエルン選帝侯領をオーストリア領ネーデルラントと交換しようと画策した。これは、1778年の方がバイエルン継承戦争の結果として、また1784年の方はウッツシュナイダーらによる反発で、いずれも失敗した。ウッツシュナイダーらはマクシミリアン・フォン・モンジュラと「啓明団」に所属していたが、領土交換を阻もうとするとき脱退して、古巣の啓明団を攻撃し公職から追放した。 1789年にハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対してブラバント革命が起こり、1790年には独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた。ベルギー(およびルクセンブルク)は、オーストリア領ネーデルラントとして再びハプスブルク家の支配下に戻った。

フランス革命戦争勃発後、ジャコバン派がフランス革命国民義勇軍を主導したが、その国民義勇軍の将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線で、ロベスピエール恐怖政治中の1793年10月、オーストリア軍を殲滅した。翌1794年6月、ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線でオーストリア軍を殲滅した。この後、フランス革命総裁政府のフランス軍は南ネーデルランドを占領した。総裁政府の軍司令官ナポレオン将軍(当時28歳、第一統領就任以前)とオーストリアは、1797年10月にカンポ・フォルミオ条約を結んだ。南ネーデルランドはその中で、リエージュ司教領と共にフランスに併合された。

独立と永世中立国化

ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダと共にネーデルラント連合王国として再編された。また、同年にルクセンブルク大公国はネーデルラント連合王国の一部ながらドイツ連邦に加盟した。1830年にネーデルラント国王ウィレム1世の支配に対して独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。この年にランベール銀行(現グループ・ブリュッセル・ランバート)が創設された。

同年に制定された憲法は、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これはカトリックのベルギーが、外から迎えるプロテスタントの国王、ザクセン=コーブルク=ゴータ家レオポルド1世(在位:1831年 - 1865年)に対抗するためのものであった。レオポルドは、ナポレオン戦争中はロシア帝国軍の傭兵士官として戦い、戦争後の1816年にイギリスに帰化して摂政王太子(のちの国王ジョージ4世)の王女シャーロットの婿になったこともあった。また、1837年に即位することになる女王ヴィクトリアの母はレオポルドの姉であった。なお、1837年はベルギー総合会社ロスチャイルドと共同でフランス=ベルギー石炭水運会社Société charbonnière et de navigation franco-belge を設立した年でもあった。

1839年、オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これはプロテスタント国家オランダにとって、カトリック国家フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。しかし、オーストリアとの経済関係まで分断する効果はなかった。後の三国同盟結成期にベルギーは確かにカトリック勢力圏であった。

新興のベルギー王家は、イギリスやフランスと関係が深かった。レオポルド1世の後妻にはフランス国王ルイ・フイリップの王女ルイーズ・マリーが迎えられ、その間の息子レオポルド2世が王位を継いだ(在位:1865年 - 1909年)。彼とイギリス女王ヴィクトリア、その王配アルバートとは従姉弟の関係にあたる。次代の国王アルベール1世(在位:1909年 - 1934年)の治世で、ベルギーは第一次世界大戦に遭遇したが、その際、アルベール1世がドイツ軍に徹底抗戦したのはこのような関係が一因であった[23]

つまりベルギーの経済関係はカトリックであったが、王族関係がプロテスタントでねじれていた。

独立以降

ベルギーは大陸ヨーロッパで最も早く産業革命が始まった。その勢いは外資企業が支えた。フランス由来ではソシエテ・ジェネラルオタンゲ、ドイツ由来のシャフハウゼン、そして当時グローバルなロスチャイルドが、独立まもないベルギーの資本調達に携わった[24]。1846年、チャールズ・ホイートストンウィリアム・クック電信敷設を許可した。1850年頃から政府は彼らの回線を買収していった。政府は鉄道に沿って回線網を拡大し、1851年には商業利用が認可された[25]。一方、1840年代にドイツ関税同盟加入に失敗しながらも同盟の鉄関税を50%引き下げることに成功していたため、1850年には同盟鉄輸入量の2/3すなわち7万6千トンを供給した。リエージュシャルルロワなどにおける石炭の産出が増加し、製鉄や機械工業が発達した。そしてこの年にベルギー国立銀行ができた。1857年、フランスと相互に、相手国法人を内国企業と原則的に対等とする協定が結ばれた。さらに同様の協定が英仏間で1862年に締結された。1865年、ベルギーはラテン通貨同盟の原加盟国となり、資本の自由化は加速した。すなわち、普仏戦争におけるベルギーは表向き中立を貫いたが、実はラテン通貨同盟を主導するフランス資本に支配されていた。

述べたように英仏と経済的に結びついていたベルギーであったが、三国同盟の結成からドイツ帝国がベルギーの利権に参加してくるようになり、アフリカ分割を主催するまでにもなった。これに対抗して露仏同盟が結ばれると、各国の膨大な資本がベルギーを経由して、およそ10年間ロシアに投下され続けた。合衆国資本も誘致された(#植民地支配)。

第一次世界大戦ではドイツ軍によってほぼ全土を占領された。戦後はドイツの脅威に対抗するためフランスと軍事協定を結んだ。すなわち産業資本家のヴァンデルや金融資本家のシュネーデルが働きかけた。実際にルール占領などでは共同で軍事行動を起こしていたが、1936年にはこれを破棄して中立政策へと回帰した。そのため第二次世界大戦では再びドイツ軍によって国土を占領された。ロンドンに亡命政権が立てられたが、国内に残った国王レオポルド3世は亡命政府の意向を無視してドイツに降伏し、立憲君主制下にある国王の権限を逸脱するものとして戦後に問題視されることとなった。

1926年にラテン通貨同盟を脱退する一方、ルクセンブルクとの通貨同盟は維持した(ルクセンブルク・フラン#歴史)。

第二次世界大戦後のベルギーは、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体参加以来、ヨーロッパ統合において中心的な役割を果たしてきた。首相としてヨーロッパ統合を推進したポール=アンリ・スパーク欧州連合の父の一人に数えられている。ベルギーが参加してから後、共同体は数回の外債を発行している。1958年7月(4500万ドル)、1960年10月(3800万ドル)、1962年4月(2500万ドル)に関するかぎり、大口引受はクーン・ローブラザード、ファースト・ボストン(現クレディ・スイスロックフェラー系)であった。この頃共同体と発行額が同規模のベルギー債は幹事のモルガン・スタンレーなどが引き受けていた。

植民地支配

1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取され、コンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。コンゴの植民地化以降、アントウェルペンには世界からダイヤモンド原石の約70%が送られるようになり、当地の伝統技術でカット・研磨された。コンゴ自由国は1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配された。

1906年、ジョン・モルガンジョン・ロックフェラーだけでなく、鉱山王ダニエル・グッゲンハイム(Daniel Guggenheim)にタバコ王トーマス・ライアン(Thomas Fortune Ryan)を加えた四人を、レオポルド2世がブリュッセルへ招待し、彼の植民地企業の株式を共同保有するよう誘った。ライアンとグッゲンハイムは、ダイヤモンド開発を担うフォルミニエール(Forminière)に1/4ずつ参加した。モルガン・ギャランティ・トラストは、誘致からしばらくして、「ベルギー領コンゴ政府における伝統的な財政支援者」となった。ロックフェラー・グループもベルギー所有の植民地企業へ資本参加した。[26][27]

1908年には、セシル・ローズが生前から要求していた鉄道の延長に関する交渉も再開されていた。暫定合意の結果、ブロークンヒルからカタンガ州に延伸する目的でローデシア=カタンガ接続鉄道鉱物会社が設立された。カタンガは1906年からユニオン・ミニエールが大規模に採掘していた。同年設立のジェネラル・キャリアは現在でも操業している。

第一次世界大戦では、1914年にドイツ帝国により中立を犯されて占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダブルンジを獲得した。

第二次世界大戦で、コンゴのウランマンハッタン計画に寄与した。フランス領コンゴでも同様であった[28]

1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの対応はコンゴ動乱モブツ体制の確立など、コンゴの不安定化を大きく助長した。1958年4月にベルギー領コンゴの発行した1500万ドルの外債は、幹事のディロン・リード(150)を筆頭に、ラザード(60)、ゴールドマン・サックス(60)、メリル・リンチ(60)など40社が引受けた(括弧内は単位万ドルの引受額)。

1986年、イギリスとの間に初の国際光海底ケーブルが敷設された。現在、首都ブリュッセル欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」に当たる性格を帯びている。ブリュッセルは2014年、ビジネス、人材、文化、政治、識字率などを総合評価した世界都市ランキングにおいて、特に「政治的関与」が高く評価され、世界11位の都市と評価された[29]

政治

ベルギーは国民的立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。

連邦議会両院制である。上院である元老院は、地域議会及び言語共同体議会を通じた間接選挙で選出される50議席と、間接選挙議員によって指名される10議席、国王の子女に割当てられる3議席からなる。下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。

連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。もしも、この後に下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。

1995年3月23日にホロコースト否認を認めないことを公式見解とし、非合法化する法律を制定している。しかし国内にはVrij Historisch Onderzoe​​k(ドイツ語版) のような否認主義組織も存在する。

政治空白

前回の総選挙は2010年6月に行われ、12の政党が議席を獲得した。しかし北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航を極め、正式な政権が541日も存在しないという事態となった[30]。これは正式な政権が存在しない世界最長記録である[31]。この政治空白の間の首相職は、総選挙で敗退したキリスト教民主フランデレン党イヴ・ルテルムが引き続き暫定的に務めた。

2011年11月26日、新政権樹立の連立協議で、主要6政党が2012年予算案で合意に達した。当時の国王アルベール2世は、ワロン系社会党エリオ・ディルポ党首に組閣を指示[32]。12月5日、ディルポを新首相に任命し[33][34]、政権は12月6日に発足した。

主な政党

自由党、社会党、キリスト教民主党、環境政党がオランダ語系(フラマン系)とフランス語系(ワロン系)に分離するなど、地域で政党が分かれているのがベルギーの政党の特徴である。

オランダ語系政党
フランス語系政党

軍事

1949年以降、ベルギーは中立主義を放棄し、北大西洋条約機構に加盟し、集団安全保障体制を構築している。軍は2002年に単一の統合軍に再編成されており、その下に陸上部隊COMOPSLAND(ベルギー陸軍)・海上部隊COMOPSNAV(ベルギー海軍)・航空部隊COMOPSAIR(ベルギー空軍)・医療部隊COMOPSMED(ベルギー医療部隊)の4部隊が編成されている。冷戦期までは徴兵制が敷かれていたが、それは廃止された。現在の兵力は現役約4万人、予備役約10万人。アメリカとニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力をもっている。

地方行政区分

ベルギーは1993年の憲法改正により連邦制に移行した。連邦は、ブリュッセル首都圏地域フランデレン地域ワロン地域の3つの地域と、フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成される。そして、フランデレン地域とワロン地域の2つの地域は、それぞれ5つのに分かれている。

ただし、フラマン語共同体とフランデレン地域については、ブリュッセル首都圏を除き領域が完全に重なるので、現行憲法が施行されてまもなく、フラマン語共同体政府がフランデレン地域政府を吸収する形で統合された。統合された自治体は単にフランデレンと呼ばれている。つまり、現在のベルギーには連邦構成主体は憲法上は6つ存在するが、実際上は5つしか存在しない。

フランデレン地域とワロン地域の境界線は、国土のほぼ中央を東西に横切っており、言語境界線と呼ばれる。

共同体

地域と州

主要都市

都市 人口
1 ブリュッセル 1,004,900
2 アントウェルペン アントウェルペン州 461,496
3 ヘント オースト=フランデレン州 233,120
4 シャルルロワ エノー州 201,456
5 リエージュ リエージュ州 187,086
6 ブルッヘ ウェスト=フランデレン州 117,224
7 ナミュール ナミュール州 107,178
8 モンス エノー州 91,221
9 ルーヴェン フラームス=ブラバント州 90,706
10 メヘレン アントウェルペン州 80,809

地理

一般的に北部のフランデレン地域は平野が広がっているのに対し、南部のワロン地域はアルデンヌ高地を中心に丘陵地帯が多い。北部は豊かな土壌が広がり、野菜や果実等の都市近郊型農業や、農耕飼料を必要とする養豚・養鶏業等が営まれているのに対し、南部はアルデンヌ高地を中心に冷涼な気候で、酸性土壌も多く、肉牛、乳牛等の放牧による畜産業や、ビート栽培等が主流である。最高地点は東部ドイツ国境付近のボトランジュで、海抜693メートルに達している。

気候

ケッペンの気候区分による温帯(Cfb)に属する。これは暖流の北大西洋海流による。晴天の続く夏期でも最高気温が20度を上回ることは多くない。面積の小さな国だが、内陸になるほど、大陸性気候の特徴が現れる。すなわち、夏の気温が上がり、冬期は寒くなる。さらに降水量の年変動が大きくなる。

首都ブリュッセル (ブリュッセル首都圏地域内のイクル、北緯50度42分、東経4度21分、標高100m)の年平均気温は10.2度[35]、最寒月は1月(平均気温3.1度)、最暖月は7月(同17.9度)。相対湿度の年平均値は81.6%(40年平均値)、最も湿潤なのは12月 (88.4%)、最も乾燥しているのは5月 (75.2%)。年平均降水量は823.0mm、最も雨の多いのは11月 (79.5mm)、最も雨が少ないのは2月 (53.1mm) である。

経済

概要

2013年のベルギーのGDPは約5065億ドルであり[36]日本九州とほぼ同等の経済規模である[37]。同年の一人当たりのGDPは45,383ドルであり世界的に上位に位置する。2016年の一人当たり国民総所得(GNI)は4万1860ドルでイギリスに次ぐ世界第18位となっている[38]

製造業を中心に豊かな資本力を誇るものの、小国であるため貿易への依存傾向が強く、経済が安定しているとまでは言い切れない。1990年代は、上昇傾向にあったが、21世紀に入って停滞状態になった。物価は低水準安定。また、景気に左右されず、失業率は概して高い。

日本では、チョコレートやベルギーワッフル等、加工菓子の産地として知られているが、ルーヴェンにある世界最大のビール会社であるアンハイザー・ブッシュ・インベブや化学会社のソルベー、製薬会社のヤンセン ファーマなども有名である。

日本との関係

松方正義ベルギー国立銀行をモデルとして日本銀行を立ち上げた。明治憲法はプロイセン憲法を原案としているが、そのプロイセン憲法はベルギー憲法の貧弱な国王大権を拡大したものであった。ブリュッセル金融網の発展に伴い、ベルギー憲法は断続的に改正された。

日本との経済的関係は、地理的問題(2001年から2015年まで空路の直行便が無かった[39]、など)や、文化的交流が少ない等の理由により、その存在は日本では一部企業を除きそれほど注目されておらず、特に銀行はバブル崩壊によりその多くが撤退した。ただし、確かな技術力を持つ企業が多いこと、またコーディネーションセンターに代表される外国企業に対する優遇税制措置が設けられていること、物流拠点としても立地が最適であること、かつ英独仏の主要国に近いこと、EUの本部所在地であること等から大手自動車メーカーなどが欧州統括本社等を置いており、2015年10月時点で240-250社がベルギーに進出している[40]在留届を提出している邦人は6,000人近くに達し、在留日本人の総数は欧州の中でも上位に位置する。

工業

ベルギーは人口規模、面積とも小さい国(世界人口の0.1%、陸地面積の0.02%)であるが、中世に起源を持つ繊維産業や石炭の採炭と関連して長くヨーロッパ域内で最も工業の進んだ地域であった。第二次世界大戦以前から鉄鋼業、機械工業、石油化学工業がよく発達していた。しかしながら、石炭産業の斜陽化に従い、1980年代前半まで、長期的な低迷傾向が見られた。その後、EC域内貿易の発展や財政再建によって再び工業が興隆し、石油化学工業、非鉄金属工業、自動車、食品工業を中心とした発展が見られる。ベルギー工業は輸入原料を加工し、半製品、製品として輸出する加工工業が中核となっている。貿易依存度は輸出87.1%、輸入81.1%[41]に達し、ヨーロッパ域内で最も貿易に依存した経済であるといえる。

主な工業都市は、アントウェルペン(石油化学工業、工業用ダイヤモンド製造業)、シャルルロワリエージュ(製鉄業)、テムス(造船業)、クルトレ、ブルッヘブリュッセルヴェルヴィエヘントメヘレン(繊維業)、ヴァルサンランベール(クリスタルガラス工業)である。

世界シェアの高い工業製品は、世界第7位のプラスチック(670万トン、世界シェア3.3%)、同第8位のスズ(8900トン、2.9%)である。世界シェア1%を超える品目を一覧すると、石油化学、非鉄金属、自動車、繊維、食品といった様々な分野においてバランスの取れた発展を見せていることが分かる。

  • 石油化学 軽油(1246万トン、世界シェア1.2%)、重油(760万トン、1.3%)、ナフサ(205万トン、1.1%)
  • 非鉄金属 亜鉛(26万トン、2.6%)、銅(38万トン、2.4%)
  • 自動車製造業 自動車(90万台、1.4%)
  • 繊維 毛糸(1.3万トン、1.3%)
  • 食品 バター(12万トン、1.5%)、ビール(17億リットル、1.1%)、豚肉(101万トン、1.0%)
  • その他 苛性ソーダ(水酸化ナトリウム、54万トン、1.2%)

鉱業

石炭採掘の歴史は古く、既に12世紀から採掘が始まっていた。現在でも石炭は埋蔵されているが、品質面で国外の石炭と競争できないため、生産が急速に落ち込んでいる。1973年の採掘量は880万トンだったが、2002年時には17万トンまで下がっている。

南北の経済格差

工業・サービス業が発達した北部のフランデレン地域と、石炭・鉄鋼業が衰退した南部のワロン地域では失業率に2倍以上の開きがある(後者の方が失業率が高い)。労働者の需給にギャップが生じても、ワロン地域はフランス語以外話せない住民が多数であるため、ワロン人がフランデレン地域で就労することが困難であり、失業率の格差が縮まらない一因となっている。またブリュッセルは移民が多く、低技能労働者が多いことから、失業率はやはり高い。

また、南北の経済格差も深刻で、フラマン系の裕福な北部と、比較的貧しい南部という図式が定着している[42]。ベルギー建国時は、この図式は逆であり、南部のフランス語圏が工業地帯として発展しており裕福で、北部が貧しかった。しかし、今や北部のフラマン地域が裕福であり、北部が南部を見下している状態にある[43]

国民

言語

言語話者(ベルギー)
フラマン語
  
58%
フランス語
  
31%
その他
  
11%

住民はオランダ語のベルギー方言とも言うべきフラマン語を話すフラマン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他混血などが11%である。特に首都ブリュッセルは中東系を中心とした移民が多く、近年ではアラブ系の「Mohammed」がブリュッセルで生まれる男子でもっとも多く名付けられる名前となっている。

ベルギーの国土は、使用言語により、3つの言語共同体に分かれており、それぞれに地方公用語がある。

ただし、それぞれの話者の割合は均等でなく、オランダ語が60%程度、フランス語が40%程度、ドイツ語が1%未満である。なお、首都ブリュッセルはオランダ語の使われるフランデレン地域に囲まれているが、フランス語話者が8割以上を占めていて、フラマン語共同体とフランス語共同体の双方が自治権を持っている。

フランデレン地域の人々とワロン地域の人々の間には、「言語戦争」とまで呼ばれる対立関係が存在する。2006年12月13日、ベルギーの公共放送RTBFが「フランデレン地域が独立を宣言して前国王アルベール2世がコンゴ民主共和国(旧ベルギー植民地)に亡命した」という架空ニュースを流した(後に、議論を喚起する目的があったと説明された)ところ、一時国内が大混乱に陥り、地域間の溝の存在を露呈する結果となった。

宗教

ベルギー国民が信仰する宗教は、ローマ・カトリックが75%、プロテスタントが25%である。1994年の統計では、イスラム教が3%となっている。この他に、ユダヤ教等を信仰する者もいる。 日本でも西日本を中心に布教活動をしているカトリック教会の淳心会は、ベルギー・ブリュッセル郊外のスクートで設立された(スクート会とも呼ばれる)。

文化

ベルギー出身またはベルギーで活躍している著名人については、ベルギー人の一覧を参照。

食文化

婚姻

婚姻の際に姓が変わることはなく、夫婦別姓である[44][45]。また、同性同士の結婚(同性婚)も2003年より可能となった。

音楽

映画

世界遺産

ベルギー国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が9件ある。

祝祭日

備考欄の※は、祝日ではないが、官庁、公共機関、学校などの施設は休みとなる日。

祝祭日が土曜または日曜と重なった場合、翌月曜日が振替休日となる。

日付 日本語表記 オランダ語表記 フランス語表記 ドイツ語表記 備考
1月1日 正月 nl:Nieuwjaar fr:Nouvel An de:Neujahr
移動祝日 復活祭 nl:Pasen fr:Pâques de:Ostern
移動祝日 復活祭の翌日の月曜日 nl:Paasmaandag fr:Lundi de Pâques de:Ostermontag
5月1日 メーデー nl:Dag van de arbeid fr:Fête du Travail de:Tag der Arbeit
移動祝日 キリスト昇天祭 nl:Onze Lieve Heer hemelvaart fr:Ascension de:Christi Himmelfahrt 復活祭39日後
移動祝日 聖霊降臨祭 nl:Pinksteren fr:Pentecôte de:Pfingsten 復活祭50日後
移動祝日 聖霊降臨祭の翌日の月曜日 nl:Pinkstermaandag fr:Lundi de Pentecôte de:Pfingstmontag
7月11日 フラマン語共同体の祝日 nl:Feest van de Vlaamse Gemeenschap Fête de la Communauté néerlandophone de Belgique
フラマン語圏のみ
7月21日 建国記念日 nl:Nationale feestdag fr:Fête nationale de:Nationalfeiertag
8月15日 聖母被昇天祭 nl:Onze Lieve Vrouw hemelvaart fr:Assomption de:Mariä Himmelfahrt
9月27日 フランス語共同体の祝日 fr:Fête de la Communauté française de Belgique
フランス語圏のみ
11月1日 万聖節 nl:Allerheiligen fr:Toussaint de:Allerheiligen
11月11日 休戦記念日 nl:Wapenstilstand fr:Jour de l'armistice de:Waffenstillstand 第一次世界大戦終結の祝祭日
11月15日 ドイツ語共同体の祝日 Fête de la Communauté germanophone de Belgique de:Tag der Deutschsprachigen Gemeinschaft Belgiens
ドイツ語圏のみ
12月25日 クリスマス nl:Kerstmis fr:Noël de:Weihnacht

スポーツ

ベルギーではサッカーが人気である[46]サッカーベルギー代表は過去に13回FIFAワールドカップに出場しており、2018年ロシア大会では最高位となる3位の成績を残した。また、UEFA欧州選手権には4回出場しており、1980年イタリア大会では準優勝となっている。代表的な現役選手としては、イングランドチェルシーFCで活躍するエデン・アザールや同じくイングランドのマンチェスター・シティFCで活躍するケヴィン・デ・ブルイネなどがいる。

ベルギーでは自転車競技が盛んで、国技として挙げられることもある[47]。主要なレースとして、ロンド・ファン・フラーンデレンリエージュ〜バストーニュ〜リエージュがある。また代表的な選手として、引退した選手では、エディ・メルクスヨハン・ムセウトム・ボーネン、現役の選手では、フィリップ・ジルベールがいる。

モトクロスも盛んに競技が行われており、ベルギーはモトクロスグランプリの発祥の地と言われる。モトクロス世界選手権(FIM World Championship)はすでに50年以上の歴史を有している。世界的有名ライダーが数多く出現している。

著名な出身者

参考文献

書籍

  • 小川秀樹『ベルギー - ヨーロッパが見える国』新潮選書、1994年。ISBN 4106004542
  • 小川秀樹編『ベルギーを知るための52章』明石書店、2009年。ISBN 9784750329246
  • 栗原福也編『オランダ・ベルギー』新潮社、1995年。ISBN 4106018411
  • 長坂寿久編『オランダを知るための60章』明石書店、2007年。ISBN 9784750325187
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年。ISBN 4634414406


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